「ちびっこフォーク」でカフカは言った。

今日はカフカ生誕130周年だそうだ。
それにちなんでではないが、坂本真綾の「ちびっこフォーク」という歌がある。作詞は一倉宏
この詩の後半にカフカがでてくる。

「きみともし世界が 戦うなら」とカフカは言った
ぼくともし世界が 戦うのなら そのときは
ぼくはぼくの敵の 世界に味方するだろう

ここで引用されているのは1918年に編まれたアフォリズム集のなかの1本で、原文は以下のようなものだ。

Im Kampf zwischen dir und der Welt sekundiere der Welt.

ドイツ語はほぼ読めないのだけど、独和を引いたらKampfが英語のfightに相当する語で、zwischenは二者間のという意味、つまりKampf zwischenで「決闘」か「対決」というところだろうか。sekundiereは支持、援護、(決闘の)介添えとある。決闘なので、助太刀的な意味での味方とは若干ニュアンスが違うのだろうか?

なお、平凡社ライブラリーに載っている訳は

お前と世界との決闘に際しては、世界に介添えせよ

とあるので、語義に素直に訳すとやはりそうなるのだろう。

……さて、世界との決闘で世界の側に立てば、私の方には誰が残るのだろうか。
結論から言うと、誰もいなくなる、で正解だと思う(この正解は普遍的な正解ではなく、私にとっての正解のことだ)。そうせよ、という箴言があるということは、彼は現状がその逆の間違った状態にあると考えていることを意味する。
現状とはつまり、「私と世界が戦っている」状態だ。
自然にあるものを否定し、自分たちの都合の良いように作り変えることで改変、利用してきた人類の営みが「私」を強固なものにしてきた結果が、今ある人の世だ。自分たちの生まれる前からそうやってきたものだから、多くの人は疑いを持つことすらしないその在り方の奇妙さを、この奇妙に矛盾した箴言は指し示しているのだと思う。

上でも引いたアフォリズム集のなかにはこんなものもある。

あるのは「所有」ではなく「存在」だけだ。最後の一息を、息絶えることを、切に望む「存在」だけだ。

「所有」とは所有するものとされるものの2者がいて始めて成立する。一方で「存在」するものはただそれだけで存在する。が、厳密には存在という概念があるためには存在しないものが必要だ……という老子流の発想でいくと、その「存在」もまた消えることで完成する。そんなところだろか。


さて、以下は空耳に基づく言いがかりに近い考察(深読み)なので話半分でどうぞ。

「ちびっこフォーク」の上記のメロディに続く歌詞は以下のようなものだ。じつはこの曲が強く印象に残っている理由は、この部分によるところが大きい。

すべてを捨てて 戦うだろう
銃を捨てて 戦うだろう

自身を裏切り世界について戦うなら、「すべてを捨てて」は分かる。だがその後に銃が出てくる。特に銃が出てくるような世界観では無いと思う(出てきてもおかしくはない)が、決闘だから拳銃か何かなのだろうか。西部劇ではあるまいに……
しかしだ。普通「銃」と発音する時「じゅぅ」と「う」の発音が曖昧になる感じだろう。
一方で、この「じゅう」の発音はちょっと独特で「じュゥう」と伸ばされ、最後のうの発音が割とはっきりしている。
その結果、「自由」と空耳する余地のある発音で、非常に深読みすれば二重の意味をかけてあるのではないかと考えられる。

なぜか。

決闘において第一に頼るものは何か。自分を措けば次は武器だろう。
「銃」は言うまでもなく、文明の生んだ武器の象徴的な単語だ。

世界といがみあい、歪んだ我々の価値観の根本にあり支えているもの。つまり自我、意志の存在という信仰だ。つまり、我々は自身が「自由である(ありうる)」と信じているから。

識ってなんだ。『唯識』

今度の哲学道場での発表(6月16日)に向けて唯識のことを勉強している。
唯識の分析によると我々の精神作用と、ひいては世界のすべては阿頼耶識から生じていると言う。阿頼耶識は末那識を生じ、末那識からは意識や五識(≒五感)が生じるが、それらのあり方はすべて阿頼耶識の内容に依存する。
従って、仮に同じ物を見たとしても異なる阿頼耶識から生じた「見え方(境)」も異なる。人の阿頼耶識からは障害物に見える川も、魚の阿頼耶識が見れば住処に見えるといった具合だ。
非常にざっくりと、現状での私の理解を言ってしまうと識とは「認識の様式」のことだ。

私の読んだ唯識の解説本は、この阿頼耶識と遺伝子の類似性を指摘している。つまり遺伝子は、自身の生存に有利な方向に個体を誘導するために過去の経験に基いて、様々な認識を作り出しているのだといった具合だ。
行動の影響は阿頼耶識に蓄積し、新たな行動の元になるという循環構造を阿頼耶識縁起といい、こうして行動や認識の癖(業)が付くことを熏習と言うらしい。

認識や行動の癖が極まると、一定の入力には必ず同様の出力をするようになるだろう。ところで、入力に対して出力が一義に決まるような物を、私たちは「式(あるいはプログラム)」と呼んでいる。遺伝子はプログラムのようなものとも言われるし、識は遺伝子のようなものである。我々の認識や行動は、自我のあずかり知らないところにある阿頼耶識というプログラムによって決定されているとしたら?

余談だが識が式と同音異義語である点だが、偶然なのかもしれないが、某新伝奇ノベルでこれらが表裏一体の名前として使われていた点には実はこんな意図が隠れていたのではなかろうか……

数学の内包とは(京都哲学道場#72)

 今回の哲学道場では、人間機械論は証明も反証も原理的に出来ない、という話をダシにして数学に第0次内包があるという主張であった。発表者は@Tarouphoさん、以下Tarou氏と表記する。
 内包とは、クリプキチャーマーズが提唱し、永井均が拡張した概念でざっくり説明すると

    • 第1次内包

現に振る舞いとして確認できて一般に「ある」とされていること。「痛み」の場合だとどこかをぶつけて顔をしかめたりぶつけた場所をさすったりするときに発生しているとされるものだ。「水」だと常温でさらさら流動し、飲めて、0度付近で固形化するものを指す。

    • 第2次内包

科学的な分析の結果、第一次内包の正体として物理的に特定されるもの。「痛み」の場合はある種の神経の活性化、水の場合だと酸素原子1個と水素原子2個が共有結合したものを指す。

    • 第0次内包

永井によって導入された。所謂クオリアのレベルで、第1次内包の言語ゲームによって「痛み」といった語を正しく習得した人間は、第一次内包レベルの振る舞いに現れない痛みそのものを感じることが原理的にできるというもの。これは本人以外には分からない。フリをするとかしないとかではなく、現に、端的に感じるモノであるということが重要。なお、「水」の第0次内包は無い。

 永井均は『なぜ意識は実在しないのか』の中で「数学には第0次内包は存在しないか、存在したとしても本質的な役割は果たさない」と言った(手元に本がないので、原文は確認していない)。Tarou氏の発表は数学においても、第0次内包が本質的な役割を果たしていると考えるとの趣旨だった。本記事は実質的にTarou氏のこの主張に対する反論となる。

 では、数学の内包とは何か。まず第1次内包を考えると計算や証明といった、機械にも真似ができて、実際には計算や証明をせずに内容を丸暗記しているだけの人でもそれを実際に行なっているフリのできる、振る舞いになる。そして、この時実際に計算や証明を行った人にのみ(厳密には「行った私にのみ」)生じる端的な体験のことである。彼は他人が計算を行ったかどうかは決めることが出来ないが、自分が計算をしたことは間違いなく「知っている」のだ。したがって、数学を学習し終えた人が自分で数学を行うときには、その正しさを周囲に教えてもらうこと無く直接的に確信することができる。
 一方で第2次内包になると、話は少しややこしくなるそうだ。というのも、数学の行いの実体というものはこの世の中には存在しないからだ。強いて想定するならば、イデア界にある「数そのもの」などが第2次内包にあたるそうだ。
 確かに、自分が何かを行うときに絶対的な正しさの根拠はなんなのかと考えると、ちょっと不思議な気分になるものだ。正しいことしかありえないようなルール、例えば論理が「正しくない場合」を上手く想像することが出来ない。それはあたかも世界のルールに反するように思える(言い換えると、経験に先立ってそういったルールが存在するように思われる)。

 だが、そのような直感は勘違いに過ぎないと私は断言できると思う。論理が絶対に正しいのは何故かというと正しくないものは論理的と呼ばないように論理のルールが設定されているからにすぎない。つまり、順番が逆なのだ。世界の中には本来的に必然的な繋がりはなく、人間が便利なようにルールを設定して切り取って見ているのが論理や言語だ。したがってこれらの営みはどこまでも言語ゲームに従い、実践を逸脱した正しさなど存在しない。しかし、数学のように正しく実践するのが当たり前になりすぎると、あたかも本来的な正しさが存在し、その正しさが優越するかのように感じる。その正しさは確かに正しいのだと思う。ただしその正しさは確信する数学者の中にしか存在せず、他者には決して伝達されない。

  • 結論。

 永井均の言うように、数学に第0次内包は存在しないか、本質的な役割は担わないとするならば以下の様な説明が可能だと思う。「数学」とは言語ゲーム的やり取りを通じてのみ意味を成す、つまり第1次内包レベルでのみ適用出来る概念であり、数学の成立には振る舞いのみで十分である。「数学の第0次(第2次)内包」という言及は単なる言葉の誤用である。



「魔法少女まどか☆マギカ」 何かを選び、何かを願い生きるということ

 魔法少女まどか☆マギカ(以下まどまぎ)を、本放送で観て以来、通して観た。脚本も演出もとにかく素晴らしい作品だと思う。以下、未視聴者への配慮は一切無いので、そのような方には一言「いいから取り敢えず観とけ」とだけ言わせて貰いたい。


 まどまぎが作品として優れている点の1つは、観ようによって様々な側面から読み取ることができるところにあると思う。これはエンディング解釈について後に述べる、表解釈と裏解釈に顕著だろう。

 まず、大まかに言ってまどまぎのストーリーは「選択」を巡って揺れ動く少女たち(とくにまどか)を描いている。例えば第一話でリボンの色を選ぶシーンがある。些細な選択だが、このリボンは最終回の伏線にもなって強調されている。この時の母子の会話では「隠れファンがいると思うのが美人の秘訣」と語られる。この会話を通して私は「生きるということは、必ず何かを選び続けることで、この選択を能動的・意識的に行い、結果を肯定できることこそが強く生きるということ」という思想を読み取った。

 意識的な選択という視点から、もう一点。
 3話Aパートで、さやかの望みの曖昧さにマミが意外なほど強く苦言を呈するシーンがある(さやかは恭介の回復自体を願っているのか、恭介の恩人になりたがっているのか?)。人が利他的な行動を取るとき、純粋にその行動を取りたくてそうしているのか、見返りを期待してやるのか。この点での御為ごかしが厄介なのは、本人も周囲も「善いこと」をしていると勘違いしてしまうところだ。そうした勘違いは得てして「こんな筈じゃなかったのに」という歪みを生むものだ。
 そういう、望みの内容に曖昧さを持っていたさやかはマミの指摘通りの乖離に悩み、結果的に破滅するワケだが、そのさやかに対置されるのが(一見したところ)純粋な利己主義者の杏子という構図は良く出来ている。杏子は最期まで、自分自身の望みに従って行動するという原理を貫けたように思え、好感が持てる。


 さて、なんの救いも無いウロブチイズム全開の世界観は、最終回についに変身するまどかの願いによって覆される。どんでん返しのハッピーエンド、まさに虚淵玄が望んだ豪腕によって宇宙の法則をねじ曲げたハッピーエンドである。

……ように一見、見えるでしょう?

 しかし、私はそうではなく、裏を読めばアレは実は「救いなんてねぇよ」という話じゃないかと思うのだ。
 何故ならばまどかの祈りは、世界から魔女を消すことで絶望を消した……ように見えて、不幸を見えないところに動かしただけではないか。つまり本当の敵である「熱力学第二法則」を棚に上げて「インキュベーターと魔女システム」という分かりやすい敵にギャフンと言わせただけではないか。その証左に、新しい世界では魔女の代わりに魔獣が跋扈し、魔法少女は相変わらず人知れず戦い、消えていく存在としてあり続ける。

「見える敵にギャフンと言わせて、世界は良くなった」
コレが表解釈。こう読んで、ヒロイックなまどかの姿に感動するのも1つの見方で、良い話だ。

だが「見えていた問題を乗り越えたけど、実は何も解決しない」
この裏解釈こそが、意図されていたかどうかにすら関わらずまどまぎという作品を通じて描き出されていいる事実だと思う。

 では、まどかの願いは間違いだったのだろうか。
 仮にまどかが「エントロピーが無い世界に」と願ったらどうなるだろう? もしそれが叶った場合、新しく出来た世界には不幸はなくなる。この宇宙では生命も誕生しない。何故なら生命とはエントロピーを外に汲み出す事によって生き残る装置だから。こうしてエントロピーの覆った、不幸のない新宇宙を作ったとして、それを享受する者がいない。もっというとそういう宇宙のことを理解できないので願いが叶ったかも分からない。というのも、変化の前後でそれらが同一のものだと理解するには、大体が同じで変化した部分だけがハイライトされ得る構造になっていないといけないからだ。

 最終回、宇宙が作り替えられた後、ほむらだけが前の宇宙の記憶を引き継いでいることこそが「変化の前後で同一視できる」ことを可能にする「変化しなかった項」として働いているのだ。言うまでもなく、奇跡に意味付けをするような「変化しなかった項」を残してしまったことは新宇宙の創造を不完全なものにし、奇跡の価値を転落させるものだ。この矛盾した構造が、この手の奇跡が原理的に不可能である所以である。

 ただし、ほむらの個人的な視点から見ると、少し事情は変わるかもしれない。新宇宙においてはほむらだけが知っている旧宇宙での出来事は「空想と区別がつかない」とキュウべえは指摘する。ほむらの視点から旧世界の物語(そしてまどかの存在)を真実と信じることは、換言すればほむらの個人的な宗教と言える。
 つまり、1つの宇宙をメタ的な視点に収めてそこで起こったことを真実として信仰すると宇宙=神と言い換えることができそうだ。そして信仰が個人の内にのみ成立するものだとすれば宇宙、神、個人の3つの概念は等価となる。
 つまり、「神」とは個人が宇宙を把握し、納得するための概念なのである……暴論だろうか。

 とにかく、色々と書いたが、まどまぎを通じて描かれていたのは究極的には「奇跡を願うことの矛盾」であり、代わりに「選び、信じ、肯定する」事の強さだったのではないだろうか。
 このことを端的に言い表しているのが、最終回のまどかの言葉である。

「希望を抱くのが間違いだなんて言われても、私、そんなのは違うって何度でも言い返せます」

「クジラは魚だ」の妥当性

「クジラは魚だ」

 これが間違った言及であることはごく一般的な常識であろう。クジラは哺乳類で、魚類ではない。
 だが、終生水の中で過ごし、ヒレをもって海を泳ぐクジラは、イヌやヒトよりはマグロやアナゴに近いのではないか。そもそもクジラが哺乳類であるということは恣意的に決められた、分類学のルールに基づくものでそれが妥当であるという根拠は特にない。故にクジラは魚だという主張も同じくらい妥当だ。

 上記のような主張はどうだろうか。これは永井均の『子どものための哲学対話』という本に出てきた猫のペネトレが言っていた話だ。本ではペネトレの言いっぱなしになっていたが、この話はもうすこし続ける価値があると思うので、今回はペネトレに反論をしてみる。

 まず、クジラを魚類ではなく哺乳類に分類することは生物学的に決まっていることで、定義なので間違っているとかいうことがない(ただし定義が不当である可能性はある)。それと、念を押しておくと「魚」という言葉は大多数の人は「魚類」と同じような意味で使っているだろう。では定義が妥当かどうか、である。かつて、クジラが魚に分類されていた時代もあったが、現代の分類学では、主に系統学的な理由から哺乳類に分類される。なぜかというと現代の生物学ではそう分類するのが一番便利だからだ。定義を変えたければ、生物学的にクジラを魚に分類したほうが便利な理由を(つまり今の生物学体系より優れた体系を)提示しなければならない。

 ここまでは、科学の立場からのごく妥当な主張である。しかし、クジラはその他大半の哺乳類とは明らかに異なった外見や習性を持っているので、むしろ魚に分類したくなるという直感も分からないでもない。だが、ペネトレが間違っているのはその点ではなく、現代生物学のルールに反するようなことを現代生物学のルールに乗った言葉を使って話してしまっているという点だ。つまり「魚」と言うとそれは定義されている言葉で、クジラは含まれない。もしクジラやマグロやアナゴをまとめて呼びたいのなら例えば「終生水棲性動物(しゅうせいすいせいせいどうぶつ、早口で10回言ってみよう)」とでも定義すればよいのだ。「クジラは終生水棲性動物だ」これなら何の矛盾も生じない。このような手順を踏むこと無く、従来のルールに乗った言葉で従来のルールに乗らない主張を行うのは、単純に矛盾としか言い様がない。

『うたかたの日々』 夢の様な暮らし、荒廃と喪失

青年コランは美しいクロエと恋に落ち、結婚する。しかしクロエは肺の中に睡蓮が生長する奇妙な病気にかかってしまう……。愉快な青春の季節の果てに訪れる、荒廃と喪失の光景を前にして立ち尽くす者の姿を、このうえなく悲痛に、美しく描き切ったラブストーリー。(光文社古典新訳文庫

 原作小説は1947年にフランス人のボリス・ヴィアンが書いたもの、併せて読んだ漫画版は岡崎京子によるもので2003年出版。ジャン=ソール・パルトルなるカリスマ的哲学者が出てきたり、小道具として原子科学の言葉が出てきたりと時の話題をシニカルに取り込んだ、「夢っぽさ」という点では非常に巧みに書かれていたと思う。言葉遊びという点ではキャロルぽくもありながら、享楽的なところは青春小説らしいという道具立ての組み合わせの妙というところだろうか。

 漫画版は、非常に原作に忠実に描かれていた。しかし逆に、小説だからこその言葉遊びをそのまま絵にしているなど、原作通りならいいというものではないと思う点も少々あった。これは、漫画版で特徴的だった、随所に黒コマが配置されて、そこに原作ままの文章が2〜3行挿入されるという演出にも現れていたと思う。そこはむしろ絵で描けばいいのに、というような箇所が度々引用されていて、なにがやりたいんだと思ってしまう。

 さて、『うたかたの日々』の構成は①小金持ちの青年たちの享楽的な日々 ②ヒロインとの恋愛・結婚 ③病にかかって死んでいくヒロインと、身を持ち崩す青年たち という、まぁよくある「上げて落とす」系の流れとなっている。この構成は楽しい日々の描写、ヒロインとの恋愛に感情移入してこそ、破滅に迫力が宿るのだと思う。しかし、私の側の問題なのかなんなのか、①と②にイマイチ乗りきれず、「あ、あ……」みたいに終わってしまったのが残念だった。
 まず、前半部の日々で彼らが何をしていたかというと、お洒落をしてカクテル飲んで贅沢な料理を食べて、哲学者(パルトル)をアイドル的に追っかけるという具合である。この部分、早い話が私には趣味が悪いとしか思えなかったのだ。前書きで恋愛に並んで重要な位置を占めると示唆されていた「ニューオリンズの音楽」についてもほとんど出て来なかったように思う。
 更にはヒロインとの恋愛。ヒロインのクロエが登場してから結婚までわずか40ページほど(全体は340ページほど)で、「出会いました一目惚れしました結婚しましたー」という感じで、互いに相手のどこに惹かれたのかとか全ッ然分からなかったし、クロエは私には特に魅力的に映らなかった。恋愛小説というのはこういうものなのだろうか。普段そういうものを読まないのでよく知っているわけではないが、違う気がしてならない。

 その後、クロエが奇病に冒され、コランは治療のための花代などで財産を失っていく。それに伴って何故か家も荒廃し、光も差さなくなる。このあたりの荒廃の描写は非常に良かった。そしてコランは金を作るためになれない労働にでるが、労働はひたすら理不尽な内容ばかりで長続きしない(これはこの世界一般の労働がそうなのか、彼の場合だけなのか微妙だが)。こうして、世界の不条理の前に、どうしていいのか分からず右往左往する青年の姿は印象的だった。なお、余談ながら岡崎京子の漫画版ではこのあたりのディストピアっぷりは映画の「未来世紀ブラジル」を想起させた。

 何が書きたかったのかよく分からなくなってきたのでこの辺にしたい。しいて簡潔に言うなら青春や恋愛の描写は文脈依存性が高いことがよく分かった。それはつまり読み手の趣味嗜好に依存するところが大きいということで、そういう意味ではこういった作品は内省のきっかけになりやすいというのも、さもありなんかもしれない。


私が独我論者になったわけ

 独我論は語り得ない。では何故独我論者は、はじめから不可能なこと(自分でそう言っている!)に多くの情熱を傾けるのか。
 他の独我論者のことは知らないので、自分はこういう理由で自分の独我論を展開しているというのを書こうと思う。

 「独我論はどうして語り得ないようなことを問題にしたがるのか?」この問いは正確ではない。私は独我論によって語ることを試みられたり、示されたりするような<私>に関する真実など、私だけが知っていればいいと思うし、各自が各自の私についてそのことを把握していればいいと思う。
……まさに、この点が問題なのである。私は自分の<私>について、そして語り得る領域と語り得ない領域について理解している(つもりでいる)のに、実在論者や二元論者たちはこの境界線を曖昧のまま、語り得ないものを語ったつもりになっているように思える。これはつまりウィトゲンシュタインが「これまでの哲学の大半がナンセンスである」と述べたことと相同であると思う。

 例えば「他人に心が本当にあるか、確かめる方法はあるだろうか?」等と大まじめに議論している人たちを見るにつけ、彼らは何を基盤にして話しているのだろうと疑問に感じる。独我論を解するならば、かような議論は全く無意味であり、いかに定義するかの問題に過ぎないことは明らかであるように思われるのだが……

 つまり、心とかクオリアとか自意識とかそういった類の言葉で表わされるものは、例えば「神経系のある状態が云々」といった物理現象に還元できないものであり、それはこの世界内の言語では語り得ない。もちろん、例えば「痛みとはナントカ神経がかくかくの状態を取った状態のことである」と定義することは出来る。が、それはあくまで定義、みなしであって「本当は〜」などと言うのはルール違反なのである。なお、世の中には心の状態とか物理現象に還元できないものがあると考えるのは勘違いであって、例えば原子がクォークからできていると判明したように、心の状態もいずれ科学的に解明され、記述されるようになると考える一派もいる。もしそうであれば、哲学的ゾンビや精巧なアンドロイドを人から区別したり、サーモスタットに心が有るか無いかも明快に記述されることになる。しかし、そのようなパラダイムは私には全く想像できないし、上述したようなよくある勘違い(境界が曖昧であるゆえに生じるもの)の一種であろうというのが率直な印象だ。

 「詩的言語という分類」「言語と思考の射程について」で述べたような、語り得ない領域(独我論)と語りうる領域(お話、みなし。言語の世界)を分別した理解を共有すること、そしてその上で独我論を消し去ることが私の目標である。独我論を消し去りたい理由は単純で、それは「この世界の中では」なんの役にも立たないからだ。
 独我論の中の「みなし」に全てを回収していくことで世界観を構築する。
「私がそのように感じるので、この机は存在するとみなそう」
「会話が成り立っているので、彼には心があるとみなそう」
「まだ覚めていないのでこれは夢ではなく現実とみなそう」
 ……
 世界内での言葉では独我論は語り得ないので、この操作が徹底されると独我論は意味をなさなくなっていく。「みなし」で世界の全てが埋めつくされた時、そこに<私>の居場所はなく、世界観は唯物論と一致する。