ユクスキュル雑語り

(*本記事はユクスキュル自身の著作等を1ページたりとも読んでいない人によるとても大雑把な理解によるものです。けして安易に信用してはいけません)


 現在放送中のアニメ、フリップフラッパーズに主人公のペットとして登場するウサギのような奇妙な動物がいる。名前はユクスキュルである。変わった名前だが、これは同名の動物学者が元ネタと思われる。

 その動物学者のユクスキュルが提唱した説は、「環世界説」に代表され、ごく大まかには以下のようなものらしい。

 動物は、それぞれの知覚の有り様に応じた「環世界」を持ち、それぞれの環世界における主体として振る舞う。例えばある種のダニは嗅覚、触覚、温度感覚の3つしか知覚を持たず、このダニには聴覚や視覚は存在しない=このダニの環世界には音や光は存在しない。
 その動物にとって知覚し得ない事象はその動物の環世界には存在しない(当然ながらこれは人間においてもあてはまる)。
 あらゆる動物の行動は、それぞれの環世界においてそれぞれの持ちうる意味に基づいた目的に応じた主体的振る舞いとして説明される。

 この説に基づくなら、我々が生きているこの世界とは、客観性のある単一の世界をそれぞれの視点から見ているというよりも、それぞれの主体に固有な環世界の重ね合わせとして想定されるべきではないかと考えられる。

 ユクスキュルの動物学者としての議論は一見したところ、動物種ごとに固有の環世界があるというふうに読めるようにも思われるが、むしろ個体ごとにも環世界は多かれ少なかれ違っていると考えるべきだろう。つまり人間においても個人個人で固有の環世界を持っているのだ。別々の環世界に生きている以上、個人Aと個人Bが見ているものは別々のモノであるし、それの意味するところも、それに対してとる行動もAとBでは本質的には異なっているのだ。
 だが、私たちは素朴には、人は同じようなモノの見方をしているし、同じような価値観を共有していると思って生活しているしそれで支障はない……いや、そうでないと社会生活が成立しないのだ。
 だから、例えば『フリップフラッパーズ』の序盤でココナの前に突然現れたパピカが、ココナやその他の人々とはまるで異なる行動様式をとり、意味の分からない言葉で世界に意味づけすることは極めて奇異に映る。
 だが、ココナはピュアイリュージョンと呼ばれる様々に様式の異なる世界を巡り、大きく断絶した環世界を生きる人々(?)と交流していく。そうすることで、従来の安定した社会的な世界観は崩れていくことになる。
 『フリップフラッパーズ』序盤で頻繁に登場するペットのユクスキュルは、気ままかつ動物的でしばしばココナの予想できないような行動をとる。だが、ユクスキュルは人間とは全く異なる動物なの明らかだし、基本的にその行動は無害なものに過ぎないので大きな問題とはならない。しかしユクスキュルと人間の行動様式(≒環世界)の間の隔たりは、実は人間と他の動物を隔てる程度のものではなく、全く同じ構造で人間同士をもバラバラに隔てるものであることが明らかになるのだ。別の言葉で言うなら、あらゆる存在は主体Aの環世界に現れる「他者」なのだ。

 隔たりは異常事態ではなく、むしろ前提である。とするならば、私たちは根源的に他者性を有して自身の環世界に現れてくるものたちとどのように関わり、何を共有することができるのだろうか。少なくともこの問いが、普遍的な原則によって答えられるようなものではないことは確かだろう。

(余談)
 ところで、動物学者・ユクスキュルは動物の行動様式の説明においては目的性を強調し、機械論的な説明を排除しようとしたらしい(彼は動物主体と環世界との意味を持った相互交渉を自然の「生命計画」と名づけた)。
 しかしながら、例のダニの行動様式などを見るに、目的とは必要なものだろうか?という疑問が湧いてくる。むしろ目的などという説明は、その環世界に対してメタ的に加えられうる後付にすぎず、したがってその環世界内には存在しないものだと思えてならない。
 少なくとも「かくかくなる刺激に対してはしかじかなる行動を取る」というルーチンのみによって行動は記述されうるのではないのか、と私の脳内でオッカムさんが剃刀を素振りしだすのだ。突き詰めれば「見えるものに対してのみ、できることをする」と簡潔に表現できるであろう環世界説において、目的などという冗長な説明はそぐわないように思えてならない。
……などといった疑問は本人の著作や論文を読めば解決することなのかもしれないんですけどね。