ビブリオバトル原稿『キノの旅』

某所で行われたビブリオバトル、5分用原稿。
テーマは「哲学に関する本」


 皆さんは、将来有望な少年少女を哲学の泥沼……もとい道、に引き込もうと思ったら手始めにどんな本を与えればいいと思いますか?(もっとも、いい大人としてそんな事をすべきかという話は脇に置いて、ですが)
 人によって色々答えはあるでしょうが、私の答えはこれです。
キノの旅』です。
 このお話は、必ずしも哲学を題材にしたものではありませんが、今から思えば14〜5歳の頃に私がこのシリーズに出会っていたことは、私の後々の「哲学すること」の下地を作ったのだと思います。そういう意味で、少なくとも私にとっては、この本は哲学に深く関係していると言ってもいいでしょう。

 ところで、少し本の話からは逸れるようですが、「哲学的」とか「哲学する」ということの本質、あるいは要件とは何でしょうか。
 「哲学」の重要なポイントの1つは、「当たり前」から離れるということだと私は考えています。あるいはすでに成立しているモノの土台自体を疑いうる視点を持つことと言ってもいいでしょう。それは実は、「アレは正しくてコレは間違っている」式の議論とは質において一線を画すものです。(私には不思議なことなのですが、この違いがサッパリ分からないという人は多いようです)

 何の話か。そう、『キノの旅』の紹介です。
 この作品は短編連作形式のライトノベルで、旅人の主人公キノが、喋る二輪車の相棒エルメスと共に様々な国を訪れ、3日間だけ滞在して立ち去るという流れが基本となっています。キノは訪れたその国の中での出来事に、自分から深入りするようなことはほとんどなく、また3日というごく短い滞在期間からしてもキノの立場はあくまで通り過ぎるだけの部外者なのです。
 さて『キノの旅』という作品の最大の特徴とは、やはり出てくる国々の個性的なことでしょう。キノが訪れる大概の国には、その国独自の、極端なまでに戯画的とも言える奇妙な習慣やルールが存在しますが、その国で生きている人々のほとんどがそれをあたり前のこととして日々を営んでいるのです。
 ほんのすこしの例を挙げると「人を殺すことができる国」では法律で殺人が禁止されていない国が登場します。現実にはおそらく存在しないそんな状況で、国民はどのように生きていると思いますか?
 「分かれている国」は、一つの国が山側と海側に分かれて対立しています。理由は山側の人々はゾウを狩って食べる習慣があり、海側の人々はクジラを狩って食べる習慣があり、それぞれ相手の習慣は許されない野蛮な行為と考えているからです。彼らは愚かでしょうか?
 他にも、あらゆる物事を国民全員の多数決で決めることにした「多数決の国」や、働かなくても生きていけるほど技術が発達した「仕事をしなくていい国」などなどが登場します。余談ですが基本的にド直球でありながらユーモラスなこれらのタイトルは、本シリーズの面白い所の1つだと私は思いますし、作品のスタイル自体にも言葉遣いなどに妙な独自ルールが色々敷かれているという入れ子構造になっているところも特筆に値します。

キノの旅』に登場する国々はどれも極端で非現実的です。しかし、ちょっと考えてみれば現実にも似たような事はあるな、ということは少々賢い中学生なら充分に気づけます。このことに自ら気づいたとき、当たり前は当たり前でなくなるのです。
 それぞれの奇妙な「当たり前」を生き、正しい−間違ってるという対立の内部で苦悩したり争ったりする人々を、部外者として傍観していく外部の視点を体験すること。これが『キノの旅』の哲学的な点だと私は思っています。