アニクリvol.5.0寄稿に際して:個人的で詩的なものとしての「不条理

アニクリ@夏コミ:アニメと音楽とバグと on Twitter: "入稿完了いたしました。アニメクリティークvol.5.0 「アニメにおける資本・文化・技術/不条理×ギャグアニメ」特集号、発刊です。5/7、東京文フリにてお待ちしています。 #bunfree
https://t.co/RdHCLyJiVg… https://t.co/PpGkf2PsH3"

 アニクリvol.5.0寄稿させていただきました。5/7東京文フリ カ-31~32です。
 「不条理な」作品の、条理が不在であるがゆえに開かれる可能性について論じた「不条理という土嬢に顕れるもの」と、『フリップフラッパーズ』の作品紹介、あるいはひとつの楽しみ方を提示するコラムだかエッセイみたいな、短めの「燦めく個々のSerendipity」の2本です。

 ところでいきなり根本的なところなのですが、「不条理」とはなんでしょうか。
 字を素直に解釈すれば、条理が不在なこと、あるいは条理に反したもののことでしょう。つまり理屈に合わない/説明できないとか、当然そうなるべきところでそうならないといったものは不条理と呼ばれるべきでしょう。
 「不条理という土嬢に顕れるもの」では、広く受け入れられるような分かり良い作品を条理的な作品と位置づけて、その対極としての不条理な作品のもつ可能性について論じました。
 本ブログで私は言語について、合理的に共通解釈を導くことのできる「公共言語」と、そういったルールから外れて使われ、それゆえに意味解釈の必ずしも一定しない「詩的言語」という分類を提唱したことがあります。この背景には私の根本的な感覚として、言葉には完全に載せることのできない何かがあって、そこにこそ個人の本質的な部分が宿りうるのだというものがあります(「詩的言語」という用語は「私的言語」のパロディであり、詩的な言葉は、発するにせよ受け取るにせよ極めて個人的な営みであるということを強く含んでいます)。

 今回寄稿した論考における条理-不条理の対立は、私にとってはこの公共言語-詩的言語の対立とパラレルでもあります。
 しかるに、詩が時に言語のルールを逸脱し、一定した解釈を拒み/読み手にその多くを委ねつつ、その裡に驚くべき豊かな意味を秘めて感動を呼び起こすことがあるのと同様に、不条理な作品とは時に条理的作品では思いもよらないようなものをもたらしてくれる可能性を秘めているのではないか。これが今回のアイデアです。

 さて、条理に沿った作品と違い、不条理な作品とは普遍的な解釈が成立しないものです。つまり逆に言えば解釈は受け取り手の側に依存しているのです。であれば、より豊かな意味を引き出しうる不条理さとはどのようなものなのか?という問いが立てられると同時にこの問いは、そうした「詩的な」不条理さを我々はどのような姿勢で享受すべきか?という受け手の側への問いともなりえます。あるいは、そもそもこのような場において顕れるものとはなんなのか?という意味論的な問いにも変化しうるのです。

 冒頭でも述べたように、不条理という言葉自体がかなり幅のある解釈を許す用語でありますが、今回はそんな「不条理さ」を大まかに2つの作品の性質に仮託した形となります。すなわち、物語的なお約束の破壊という意味での不条理として『えびてん』を、そしてそもそも条理の不在した日常系の代表として『ゆゆ式』をとりあげました。
 これら2作品の性質と魅力を分析することで、「不条理」の持つ可能性(それは条理に対するオルタナティブであるという点は、アニクリvol.5.0の特集に私がこの寄稿を思い立った理由でもあります)を示すことが「不条理という土嬢に顕れるもの」の狙いです。

 また、「燦めく個々のSerendipity」では『フリップフラッパーズ』をとりあげ、こちらはより私個人の鑑賞体験に寄せた形で、この種の不条理作品のひとつの楽しみ方を提示したいと思いました。いわば「不条理という〜」が理論編とすれば「燦めく〜」は実践編のような趣もあります。したがって、特集の関係で「燦めく〜」が前に掲載されていますが、こちらを後回しにしていただいたほうがより読みやすいかもしれません。

 以上、簡単な紹介ですが是非本誌の方をお手にとっていただければ幸いです。