『サクラノ詩』感想・考察など

<注意!>
この記事は性質上、『サクラノ詩』全編のネタバレを各所に含みます。未プレイ、プレイ途中の閲覧は自己責任でお願いします。

また、ネタ本・副読本に関しては別の記事をすでにあげていますのでそちらもよろしければどうぞ。

前作、『素晴らしき日々』が「自己(自我)」に主要なテーマが置かれていたのに対して、本作「サクラノ詩』のテーマは「他者」です。また、そのためのサブテーマまたは重要なモチーフとして、絵画というものがクローズアップされています。更には絵画とは他者に訴えかける、言葉を超えた力を持つものとして捉えられる点も、『すば日々』で言語に注目されていたこととも対応していると言えましょう。
あるいは、別の切り口としては「幸福」がもう一つの主題と言って良いでしょう。パッケージの裏面にはこのようにあります。

”幸福に生きよ”のその先、”幸福な生”を体現する”日常”反哲学的でごく自然な日常の物語とはーー。

「幸福に生きよ」とは、『すば日々』で繰り返されたウィトゲンシュタインの言葉であり、ここでも本作が『すば日々』で語られたことのその先を目指すことが宣言されています。
これらが大まかに言って『サクラノ詩』の物語が語ることの骨子であることを踏まえて、各章の感想をまとめていきたいと思います。
『I Frühlingsbeginn』 『II Abend』
各ヒロインの個別パートに入る前の、導入部的な位置づけとなるこれらの章は登場人物の紹介という意味合いが強い一方で、同時に「芸術とは(あるいは美とは)何か」という重要な話題も取り上げられます。正直に申し上げて、初見ではキャラクターはテンプレ的で、ギャグもあまり面白くないと思ってしまいました。……少なくともキャラクターに関しては多分に意図的なミスリードであったことが、後に分かるわけですが。

  • 美について

ギャグの流れで唐突に引かれる、ルノワールが「おっぱいを描くために画家になった」と発言したというエピソードは、芸術とは何かという点に対する重大な問いかけを含んでいます。何を美しく感じるか、というのは非常に不思議なものですが、私達、人間という動物の主観から生じるそうした感情は掘り下げていけば動物的な本能に根ざしているであろうことは想像に難くないわけです。「芸術とポルノの境界線は?」などという議論を実際に目にすることもありますが、実際の所ここにはっきりした区切りをつけることは不可能でしょう(が、これは両者に実質的に差がないという意味でも、もちろんありません)。

私自身の関心としては、自身の感じる「美」がどういうところに由来しているのか、何に美を感じるのかといった問題には興味があります。が、一般的な美の法則といったものには、特に興味がわきません。というのも、そもそも、万人に普遍的に感じられる美があるとは思えない、という根本的な感覚があるからでしょう。
なぜ普遍的な美が成立しないと思うかというと、端的にはそれを感じる私たちはそれぞれ別のものを見てるから、ということになるでしょうか。逆に言って、他人が感じる「個人的な」美の感覚の在り方といえばとても興味深いモノを感じます。
美が顕れる場所はどこかというと、それは典型的には詩とか絵とか音楽といった芸術でしょう。私はそれらのものに、普遍性は一切信じていません(より正確を期すなら「信じることができない」のです)。

  • 芸術は誰のためのものか

『II』で明石たちによって完成されることになる「桜たちの足跡」を巡っては、芸術家と芸術作品の関係が問題となります。芸術作品の意義がそれ単独で成立するなら、芸術家の名義は必要ないのではないか? あるいは「誰が」「何のために」その作品を作ったかは作品の意義と不可分なのか? また芸術作品が後々残った時に、変化していくその意味について……
そうした論点は、後の章でも形を変えて度々登場することとなるわけですが、ここではっきりと描かれていることは、作品を作るという行為そのものの「楽しさ」の意義です。

『III Olympia』
御桜稟の個別ルート。直哉たちによって封じられていた稟の過去、直哉が右手を使えなくなった理由、吹の正体(の半分)が語られることになります。また、本シナリオで提示されるのは、選択肢が限られていようと、どれを選択するかではなく、選択したことを受け入れてその先を生きていくという姿勢です。
しかしながら私にとって本シナリオは、善意のもたらす歪みや、物事への過剰な意味付けの生む不幸といったものが現出しているように思えてなりません。
それゆえ稟が過去を取り戻してからの一連の流れも、取ってつけたような解決でいまいち釈然としなかったというのが正直な感想です。稟の性格や振る舞いも、他のシナリオで脇役として登場する場合や、『VI』での天才性を取り戻した姿の方がよほど魅力的に見えてしまいます。

『III PicaPica』

どうしようもないほどの天才の姿を知り、そうでない自身を、しかし平凡さという面を肯定的に育てていく道を選んだ鳥谷真琴のシナリオです(とは言っても私にすれば真琴も相当の特別なモノを持った人間に見えてならないのだが……)。
このシナリオでは直哉もまた、世界に向けた絵を描くようなことはなく、その絵は真琴のためだけに描かれるといった、「手の届く範囲の幸せ」を肯定する生き方を選びます。
なにかの物語や価値に身を捧げることばかり有意義な生き方ではない。「ただそこに続いていく幸福な日常」というものに帰ることができれば、それは実の所最も正しい正解なのではないか。これが『PicaPica』の主題だと私は考えます。
その一方で、これはアンチテーゼとして「月に手を伸ばすことを忘れられない人とか、そもそもそういう選択肢が出現しないタイプの人生を歩んでる人もいる」という事実をも暗示することとなります。当然、万人の人生に適用できる正解などあるわけもないのですがね。

『III ZYPRESSEN』

白い毒キノコの少女こと、氷川里奈のシナリオ。私的には最も印象的で面白かったルートです。
メルヘンチックな寓話風味と、入り組んでこじれた百合模様が非常にエモくて大変良かったですね。
里奈にせよ、優美にせよですが「そうあってしまった生をいかに生きるか」という不条理文学的な色が濃く、普通ならそこに寄り添うのはあまりにつらい内容かもしれません。が、キャラの根底にある明るさのおかげで、しっかりと話にのめり込むことができたのは良かったです。むしろ、世界の不条理という色彩が濃いからこそ、キャラクターの佇まいのもつ魅力が鮮やかに映るのかもしれません。
また、美術的な主題という側面としては、過去の回想での糸杉と桜の共作において、絵を通じた他者との交流と創作の楽しさが描かれるとともに、他者に訴えかけて、その生き方までもを変えうる(言ってしまえば奇跡的な)力を持つものとしての「絵」が活き活きと描き出されます。このような形の交流が、通常の言語コミュニケーションでは考えられないことは明らかでしょう。

シナリオのメインとなるのは当然、互いを選び合って結ばれる直哉と里奈ですが、ここで見逃せないのは千年桜の奇跡を前にした優美の選択です。実際、このシナリオでは優美が「柄にもなく」海辺へ行くシーンで締めくくられるのですが、ここがとても良かったです。
願いが叶い幸福になれるのは良いことなのは間違いないでしょう。しかし、巡り合わせが悪いやら何やらでそのような幸福を手にすることができない場合、条理をねじ曲げてまで幸福を願うことは正しい姿勢だろうか? というと幸福を願うことも良し悪しであるとも言えてきます。優美はいわば、奇跡でもない限りは望みが叶えられることはない星の下に生まれついてしまった在り方をしています。
普通の幸福が手に入らなかったとして、それならそれで笑いながら悪態でも吐きながら、幸せにはなれなかった生を送ることもそれはそれで乙なモノなのかもしれない。この世の不条理を生きる姿勢として、それはある意味美しくもある。そんな風にも思えます。
なお、筆者としても「世界がどう言おうと、私は私の望むものを求めつづけるのだ!」といった強い姿勢も嫌いな訳ではないのです。それもまた一つの正しさとなりえるでしょう。念のため。

ところでこれは余談ではあるのですが、里奈が飲んでいた薬、「UFT サンフラルS」は、ほぼおなじ名前の抗癌剤が存在します。また、現実の「サンフラル」には日光過敏症の副作用はないようですが、経口摂取で肌の日光過敏を発症する可能性のある薬が実在します(抗生物質などの用途で処方されているようです)。現実の「サンフラル」に準じた適用とするなら、里奈の病気とは消化器系か肺・肝臓あたりの癌と思われます。「嵐の夜」のすこし後、夏の終わりに里奈は手術を受けて病気は治っている様子ですが、そういえば手術痕は見当たらなかったですねぇ……?

『III Marchen』
ZYPRESSENの裏エンドとでもいいますか、百合ですね。なぜ里奈が百合に目覚めたのか、そこはよくわかりませんでしたが、まあそれはどうでもいいでしょう。それよりも、このルートの最後は優美が屋上から本を投げ捨てるシーンで終わるのですが、初回は今ひとつ意味がわかりませんでした。直哉が稟と結ばれていることは順当にせよ、なぜ『春日狂騒』なのか。なぜ優美は一人で、しかも幸せそうではないのか。
明示されているわけではないにせよ、以下のような解釈を与えると、この話の意味が通るようになります。
里奈は、かつて「嵐の夜の出来事」により、生の力を得て病気を克服した。櫻の芸術家、直哉を想う里奈はもうZYPRESSENの森の白い毒キノコ少女ではなくなるわけである。ところが『Marchen』において里奈は優美とともにいることを選び、オオカミを罠にかける毒キノコの少女としての在り方へと再び傾くことになる。そのことを象徴するかのように、里奈と優美は再びあの夜の公園に戻ってくる(『ZYPRESSEN』では直哉を交えた3人で、昼間に戻ってきた場所でもある)。その場で優美は何かを感じ取ったかのように、「誰かにふさわしい」詩を口にする。それは中原中也の『在りし日の歌』に入っている『一つのメルヘン』――無機質な石ばかりの世界に蝶が現れ、くっきりとした影を落としながらもいつしか消え、後には水が流れるように変わった世界が残る。そんな詩だ。
その後、時間は流れて例の屋上のシーンに繋がる。ここで優美が読んでいるのは『在りし日の歌』から、もはやお馴染みとなった『春日狂騒』。冒頭部分「愛するものが死んだ時には〜奉仕の気持ちになることなんです」の部分は飛ばし、その後「奉仕の気持ちになりはなったが」からです。読み終わった優美は「あばよ、でくの坊」とつぶやき、屋上から本を投げ捨てる。
……これらの描写は里奈がその後、病気を再発して死んだことを暗示しているように思えてならないのです。『春日狂騒』の内容はあまり優美にふさわしいとは思えない一方で、本を屋上から投げるのは、「自殺」の代わりではないでしょうか。愛するものが死に、かと言って自殺とも奉仕の気持ちで実直な生活とも思えない優美には、『在りし日の歌』はもはや空虚でしかなかったのかもしれません。

石と砂ばかりの荒野に生きるオオカミの元に、奇跡のように舞い降りた美しいいきもの。しかしその美しいいきものは、現れたとき同様、いつのまにか姿を消してしまう。跡形もなく消えた蝶はしかし、世界に決定的な変化を残していったのです。

ところで、優美という少女はその第一印象に反し、ある種の気高さないし強さを持った彼女らしい佇まいを持っているように思えます。そんな彼女には『よだかの星』に出てくるよだかの卑屈さや、『春日狂騒』の感傷的な「実直」などというものは、どうにもそぐわないものに思えてしまってなりません。後者に関しては、先述したように、だから悪態とともに本を投げ捨てたのだとも解釈できますが、前者に関しては自分で「私好みの話」と言っているのですよね(もっとも、里奈がいれば罪悪感で美しく光る星には用はないとも言っていますが)。

<追記>
こちらの記事では、『Marchen』の世界は優美が見ている夢、あるいはそれに類する実在しない世界の話であるという解釈が展開されています。非常に説得力がある見方だと思います。他の考察もたいへん興味深いです。
http://d.hatena.ne.jp/tono_d/20160303/1457007022#20160303fn2


『III A nice Derangement of Epitaphs』
直哉と雫(葛)の出会いの時期の回想をシナリオの軸とするルートで、直哉が健一郎の贋作として「櫻七相図」を制作し、葛を助けた経緯が語られます。直哉は「櫻七相図」は特別な装置を用いて他人の作風を再現したまがい物に過ぎないと繰り返します。しかし、芸術作品の制作にあたって何らかの装置を使うのは別段おかしなことではありません(拡大すれば、筆を持った時点で人は人工物の助けを借りて作品を作ることになるのだから)。そして完全なオリジナル作品というものも存在し得ないことは、わざわざ論ずるまでもないでしょう。人を騙す目的で、普通でない装置を用いて、他人の作風を模した贋作であるからといって、では「櫻七相図」には芸術としての意義はないのでしょうか。
芸術の価値はどこにあるのか? 芸術の価値とはそれを見る人間が何を感じるのかにあるのではないか。そう考えるならば、「櫻七相図」は(作者の意図すら超えて)明らかにそれ自身の意義を獲得したと言えるでしょう。

章のタイトルとなっている”A Nice Derangement of Epitaphs”は、哲学者、ドナルド・デイヴィドソンの論文名であり、言い間違えを正しく解釈することを例に、発話の意味解釈が一定したルールに基づいているのではなく、その都度その都度に新たに生み出される解釈方法に依存していることを象徴するフレーズです。本作の文脈では言い間違いというよりも、発話者の意図を超えた新たな解釈が意味を作り出すことに焦点が当てられています。

例えば”A Nice Derangement of Epitaphs”というフレーズの訳について考えてみましょう。デイヴィドソンの解説書では「碑銘をうまく乱すこと」などと訳される場合が多いようですが、『サクラノ詩』では「墓碑銘の素晴らしき混乱」と訳されていて、かなり趣が異なっています。
これは、デイヴィドソンの『NDE』では言い間違い元の正しい文である「異名をうまく編み出すこと(”A nice arrangement of epithets”)」との対応を重視した訳なのに対して、『サクラノ詩』では死にゆく健一郎にとっては墓碑銘だが、世間では異なるように、意義を持って受け入れられるだろうというニュアンスを含ませた結果でしょう(加えて言うならば、すかぢ作品に登場する場合において、「素晴らしき」という言葉は特別な響きを帯びることも考慮して良いかもしれません)。
このような事例一つをとっても、あるひとつの文にはひとつの決まった意味があるとか、文とは意味を保ったまま翻訳や伝達が可能だという想定が破綻していることが分かります。
また、このような哲学上の議論を踏まえれば、言葉の意味が我々の素朴な感覚に反して、いかに不安定かということが分かります。にも関わらず言葉を過信してしまうことは、自らを狭い世界に閉じ込めてしまうことにも繋がるとも言えます(この点に関しては過去記事、『空気力学少女と少年の詩』考察もご参照ください)。

健一郎は「無駄なおしゃべりは体を濁らす」とした上で「芸術に無駄なおしゃべりは必要ない。研ぎ澄まされた意義だけが浮かび上がる」と言います。言葉が信用ならないからと言って、じゃあ芸術なら確実に伝わるのかというと、むしろ難しいだろうと考えるのが正しいでしょう。しかし、ただの言葉では伝え得ないことも、あるいは芸術なら届けることができるのではないか。芸術にはそういった可能性を見ることができる、というのが本章で表現されている「芸術の意義」ではないでしょうか。
実際、健一郎が「櫻七相図」を前にしてどのような意義を読み取ったのかは、健一郎ならざる私たちには知ることはできません。しかし、そこに何の意義も発生していなかったということは、とうてい言えないと思います。

『IV What is mind? No matter. What is matter? Never mind.』
時間は遡り、健一郎と水菜の出会いから、現在の夏目屋敷の状況に至った経緯などがストーリーとなります。
また、伯奇の力に目覚めたことで人間としての感情を失った葛、身体の自由を奪われ、汚されたと言う水菜が登場し、心身の乖離が問題となります。心と体(あるいは物質)は同一のものなのか、別々のものなのか。あるいはそれらの間にはどういう関係があるのか、そういった問が本章の哲学的なテーマとして提示されているとも言えます。
心身の区分に関しては、これまで途方も無い量の議論がなされてきた分野ですが、結局のところそういった言葉で何かを指して呼ぶ限りにおいて、心や体という概念が成立するのであって、分けて呼ぶか一緒に扱うかは「言い方の違い、あるいは行き違いの言葉」であるという身も蓋もない結論に至ってしまいます。
そこに心を感じるから「心がある」というのだとも言えますし、物質界のどこをどう探しても心にあたるようなものは見当たらない、だからそんなものは幻想だと言ってしまっても間違いとは言えないでしょう。
あるいは、やや飛躍した言い方かもしれませんが、心をどのように捉えるか、物質界の風景をどのように解釈するのかは、ひとえにその解釈する人間個人に委ねられていて、その解釈を何らかの形で表現することこそが芸術の一つの意味だと言えると思います。
こと芸術という視点を意識するならば、唯物論よりも唯物論を内部に取り込んだような形の唯心論のような世界観(雑な言い方ですが)が馴染み良いとも言えるでしょう。『春と修羅 序』はそのような世界観を端的かつ詩的に言い表していて、まさにこの作品にぴったりだと思います。

『V The happy prince and other tales』
多くのものを救ってきた直哉が、そのために失ってきたもの、そして救ってきたものに向き合うこと、そして圭の熱意に動かされる形で再び筆を取り、自らの目標、自分自身の生きる意味を掴もうとする話になります。
何を持って彼はヒーローたりえるか、というような話とは別側面の問題として、彼自身も一人の人間であるところのヒーロー自身の生がここでは問題となります。換言すれば、人を救うものとしてのヒーローという在り方を健全に成立させるためには、人助けのためにヒーロー本人が支払うことになる対価と、ヒーロー自身の生の価値を、どのように折り合わせるかという問題を解決する必要があるのです。
人一人の持ちうるものも手の届く範囲も限られる以上、際限なく他を救うなどというのは破滅への道でしかありません。
困っている人がいれば、危険やコストを無視してでも助けずにはいられない、ヒーローのような在り方にとりつかれた人物はしばしば創作の題材となります。そんなメサイアコンプレックスといえば『ブギーポップ』シリーズの霧間凪や『Fate』の衛宮士郎が思い浮かびますが、彼らはいずれにせよ人として歪んだ在り方を強いられるのは間違いありません。結局は救うものの基準と価値を自身の内に取り込んだその佇まいの持つ説得力なのかな、などと思います。

などと言ってみたところで、やはり私たちは銅像などではなくそれぞれ無二である自身の生がある人間であり、一方でその手の届く範囲はあまりに狭いのです。結局のところ全能のヒーローのように、奇跡のように、救いをもたらす存在などというものは人の手にはあまるわけです。それでは私達のなすべきこととは、他者に救いを振りまくことではなく「小さな手を大きく広げ、幸福を集める」ことなのではないかという話になってきます。
もしも私が自分自身では何もできない銅像であったなら、あるいは目に見える範囲の他者を救うためにその身を捧げるという道もあったかもしれません(それはその「私」の生きる意義となりえましょう)。だけれども、前提として人間である以上、そのたられば話はあまりに宙に浮きすぎていると言わざるをえません。

さて、本章では「幸福の王子」のように生きてきた直哉が、圭とともに世界を目指す目標を見出して自らの創作活動を再開します。しかしながら、ムーア展での受賞を前に圭は事故で死亡、直哉はこのことを後悔するとともに目標を見失い、以後創作から離れることとなります。そもそも圭の死に直哉が責任を感じるのは筋違いに思えてしかたない(そういうのは理屈ではあいのかもしれませんが)上に、圭が死んだことで創作をやめてしまうということは、結局直哉は他人のために生きていたのか?という疑問が湧いてしまい、直哉の感情に寄り添うことはどうにもできませんでした。
それはともかくとして、圭の死を間接的な契機として「美に呪われた」とも言われる稟の才能が復活し、彼女は以後圭と直哉の代わりのように世界的な芸術家として活躍することになります。
別れの前、稟と直哉は美について議論を交わします。
絶対的な美は存在すると言う稟に対して、直哉の主張する美は常に人の解釈に寄り添ったもの、稟に言わせれば「弱い神様」のそれです。稟の好きなオスカー・ワイルドの論じているような美はどちらかというと人の知性や解釈に依存するものであるような気がしてなりませんが、あるいは稟の天才性とは、自らの主観的な美を絶対のものと確信できるほどに圧倒的なものだったことの裏返しと取ることも可能でしょう。それこそが健一郎の言った「美の神を宿している」ことの意味かもしれません。私としては稟の言う「絶対の美」を安直なイデア論的な主張に解釈するよりはこのように取る方が好みですね。
……などと思ってたら、確認してみたところそもそも稟自身が「本当は私だってそうだけど」とつぶやいていますね(それも意味深な演出付きで)。
この事が何を意味するのか、一つの仮説としてはこうです。
才能を取り戻した稟は、常識はずれの表現力でもって美術界に衝撃を与えます。彼女はこの後、その絵画で世界へ挑むわけですが、稟自身は自らの力量を確信しつつも、それが普遍的かつ絶対的なものではないということも理解しているのです。にもかかわらず、様々な政治的・金銭的意図の渦巻く美術界に才能ひとつで乗り込まねばならないというとき、自らの美の神以外に信じることのできるものはありません。いわば、彼女の神は実際には「弱い神様」であるにも関わらず、それを寄る辺にする以上、それは強い神でなければならないのです。そして稟に宿った美の神には、そのような強い神としての振る舞いを表向きだけにせよやってみせるだけの力があったのです。それこそが稟の「持たされてしまった者」としての悲劇なのかもしれません。

『V』のラストは、藍の前で直哉が、幸福の王子としてのそれまでの在り方を間違っていたと言うかどうかで分かれます。間違っていたと幸福の王子的な在り方を否定すると『VI』には繋がらない方の藍と結ばれるエンディングとなります。私としてはそのほうが健全に思えてならないわけですが、それでもなお「分からない」と言う直哉はやはり心には「櫻の芸術家」を秘めながらも幸福の王子でありつづけるのです。与えるものを人に与え尽くし、あとは出て行った人たちのために故郷を守るばかりの日々を過ごすことになる『VI』の直哉の姿は何を映すのでしょうか。

『VI     』時は流れ、直哉は弓張学園で非常勤講師として明日もしれぬ日々、他のメンバーは各地へ散ってゆきそれぞれの人生を歩んでいます。作品を創ることもなくなり、さしたる目的もない日々を送る直哉は、一見まるで空虚で擦り切れたような、全てを与え尽くした後の幸福の王子の姿のようです(そんなでなぜわざわざ藝大まで出たのか謎ですが)。
あるいは、特別さとは関係なく平凡で何も起こらない日常を歩んでいく直哉の姿を「幸福に生きよ、の先にあるもの」とみるのでしょうか? しかしそれは納得が行きません。というのも、この直哉は圭の一件がなければ世界的に活躍する芸術家を目指していたはずの人物だからです。
しかし、怪我により陸上を引退し、同じように目標を失い途方にくれた桜子は直哉や他の新・美術部メンバーとの交流を通じて新しい世界への扉を開くことになります。ここで直哉は桜子に対して、作品を作ること自体の楽しさ、意義のことや、作品がそれを見る人によって生きるのだという「人間に寄りそった、弱い美の神様」のことを教えます。
また、ブルバギとの一件を通じ、新・美術部メンバーだけでなく稟や真琴たちも直哉の中の「櫻の芸術家」は死んでいないことを知ります。平凡で何もない日々を送りながら因果の交流点として、また、いつか出て行った人々が帰ってくる場所を守る存在として、直哉は藍と二人で夏目屋敷を守っていくのでしょう。

「”幸福に生きよ”のその先、”幸福な生”を体現する”日常”反哲学的でごく自然な日常の物語とはーー。」
再びですが、これは『サクラノ詩』のパッケージ裏にある言葉です。
『VI』は確かに、このテーマに沿ったある回答を提示したと言えるかもしれませんが、流石にこの内容で「なるほどこれが幸福な生か」と納得できるかといわれれば、私にはちょっと難しいです。あるいはそれは趣味の問題に過ぎないのかもしれませんが、私としての納得出来ないポイントはやはり、『VI』での直哉は圭の死からの転落の結果だという点でしょうか。ひいて言えばそれは、「幸福の王子(ヒーロー)」という在り方の歪みが顕在しているからなのかもしれません。
そういった意味でも、私の趣味としては『III ZYPRESSEN』において、失ったものを折り込み、そして選んだものをはっきりと踏まえて「自分たちはいかなる者か」を示した直哉と里奈の佇まいなどを好ましく感じるのです。全編終わって気付きましたが、全てのエンディングの中で、その後直哉が芸術家として活動した可能性が示唆されるのは『ZYPRESSEN』だけなのですね。
また、ごく自然で幸福な日常という方向の回答であれば、そうこじらせることもなく『PicaPica』のエンディングがシンプルに幸福な日常を自分たちで選びとった形になっていてきれいだったとも思います。

総評として、他者性、芸術の意味、幸福とは、といった問題群に対してさまざまな角度から「詩的な」ストーリーが幾重にも重なり合うように描き出されて、『春と修羅』になぞらえて言うなら「思想のスケッチ」とでも言うべき作品だったと思います。
いっぽうで、本文に書いたとおり提示された思想は必ずしも充分なものだったとは思えない部分もありました。というか、すかぢさんは本作に、書きたかったこと、書きえたことを果たして全て書ききったのだろうか? という疑問はあります。もしもそうした不足と思われるような点が、あえて空白とされているなら、『サクラノ刻』がますます楽しみです。

いずれにせよ、私に多くの新しい風景を提示してくれた『サクラノ詩』、良い作品でした。