哲学的絵図遊び――「論考のアレ」より

私が自分の哲学的立場のトレードマークとしている図がある。このようなものだ。


図1

これは、もちろんウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に登場する図のパロディ(?)であり、ウィトゲンシュタインのそれは以下のようなものだ。

『5.6331 つまり、視野は決してこのような形をしてはいないのである。』


図2

これは「主体は世界に属さない」「視界におけるいかなるものも、それが目によってみられていることは推論されない」ということを表現した図である。

ところで、草稿の方では該当箇所の近くにこのような記述も見られる。

『日常の考察のしかたは、諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相の下での考察はそれらを外側からみるのである(1916年10/7)』

ここで「中心からみる」の意味が一見して明瞭でないのだが、私は「諸対象」を「観測者を取り巻いて存在する世界内の存在」としてとらえた。すなわち、観測者の眼から見られた世界が諸対象の中心から見られた「日常の考察のしかた」なのである。それに対して、「永遠の相の下での考察」とは観測者の眼とは無関係に世界の輪郭線(外側)から世界内に向けられる視線ということになる。
それぞれを図に描き込むとこうだ。

図3

さて、冒頭に出した私の図では、眼(主体)は論考の図とよく似た形をしているが、それは世界内に閉じたひとつの対象として存在するのではなく、世界の輪郭線とシームレスに接続されている。トポロジー的に言うならば、このような主体はあってもなくても同じである。つまり図1は、ある意味においてただの真円と同義と言えるのだ。

図1に、図3で描いたような「考察の視線」を描き入れるとしよう。
主体の線と世界の輪郭線がシームレスであるならば、例えばこのように重ねて描いてしまっても構わない、ということになる。


図4

ところで、図にする便宜上、線同士はすこし浮かせて描いたが、本来数学的には線には太さがない。
であるならば、図4での「中心からの視線」と「外側からの視線」は、完全に重なることが可能だろうか。
いささかふわふわした表現ではあるが、このようなことが、私の哲学的な関心事なのである。なのでこの図は私の哲学的トレードマークにふさわしいと思っている。

あとは、図1に文字を足すとすればこのようにしたい。
「世界とはこのような形をしているのである」

「脳」と書いてあるのは、エミリー・ディキンソンの詩「The Brain is Wider than the Sky(J632)」から貰ったものだ。
曰く「脳は空より広く、海より深い。脳は神様と同じ重さ」である。

  • 以下、余談。あるいは本題。

……ところで、『草稿』を読んでいて『サクラノ詩』に関して思いついたことがあるのでここに書いておきたい。以前の感想記事では曖昧にしか解釈できてなかった部分について、ひとつの読解が成立したと思ったからだ。

「全てがいかなる事情にあるかが、神である」
「もっぱら、私の生は比類のないものである、という意識から、宗教、科学、そして芸術が生じる」
「そしてこの意識が生そのものである」『草稿』(1916年8/1〜2)

世界の在りようを担保する神、私の比類なき生=意識から生じる芸術。世界の意味はその世界に属さない主体によって生じる、とも書かれている。

私の生(=意識)から生じた芸術が、人に寄り添った弱い神によって成立するものとして、では私の生の意味をこの世界から徹底的に追い出した時、私の比類なき生の意味から生じた神は世界の限界に一致し、この世界そのものの神となる。そこにおいて世界の内部にいる私に、もはや意味はない。かくして私の弱い神は、人に依存せずに成立する絶対の調停者である強い神と一致する。

もしやこれが『サクラノ詩』において直哉が人に寄り添った弱い神と生きる芸術を、稟は人に依存しない絶対者としての強い神を主張したにも関わらず、稟が「本当は私だってそうだけど」と言ったことの意味では無かろうか、というような事を考えた。

生に関する全てがひとつの主体/意識として回収されていくとして、生に関係しないもの(「世界それ自身」?)に意味ないし実在は認められるのか。