ViVidStrike!:幸福と強さを求めた少女たちの物語

 ViVidStrike!(以下「ビビスト」)というアニメは『魔法少女リリカルなのは』シリーズの直系に位置づけられるべき作品と言えるでしょう。それはなのはの義理の娘であるヴィヴィオが重要なキャラクターとして登場するとか、魔法文明の設定がある程度共有されているとかいう点でスピンオフである以上に、その精神性において明らかに受け継いでいるものがあるという点において、『ビビスト』は『なのは』の系譜なのです

 『なのは』というシリーズが一貫して扱ってきた物語とは、思いを伝え、正しいと信じることを通すために起こるぶつかり合いと、そのために全力を出したからこそ導かれる調停、ハッピーエンドという構図に支えられています。一方で、ビビストまでを含めたなのはシリーズにおいて、登場人物が掴むその正しさにはある変化が見られます。初代や2期A'sでは、なのは、フェイト、はやてといったメインの面々もベルカの騎士たちも含め、彼女らの直面する問題は否応無しの深刻なものでした。彼女らはほとんど選択の余地なく立ち向かう決断をすることを強いられ、迷う余地すらなく自分の信じる正しさを掴みとることになります。そんななのはたちが大人になり、導き手としての立場につく3期StrikerSではここに変化が現れます。StrikerSは、主役であるスバルらが時に迷い、失敗しながら大人たちに導かれて成長するという物語であり、世代を超えた精神と技術の継承という構図が現れます。

 さて、ビビストは明らかに『なのは』シリーズの系譜の作品でありながら、初めて高町なのはが登場しない作品となりました。無論、ヴィヴィオの保護者としての存在は示唆されていますし、ここまでなのはシリーズを観てきた人ならば、ナカジマジムの明るく平和な空間ができるまでに多くのことがあったことを知っています。ビビストにおいて、導き手である大人たちの姿が遠景へ後退したことは、継承というStrikerSのテーマから先へ進み、子供たち自身での迷いと失敗を繰り返しながらの「再発見」が描かれるために必要だったと見ることもできそうです。
 また、別の側面としてViVid系列のストーリーは格闘競技を題材としているため、敗北が取り返しのつかない結果になるシビアな実戦の場を描いてきた『なのは』3作と違って深刻になりすぎない、失敗もできるというある種の健全さを押し出すことができたという意味もあるでしょう。
 とはいえ、格闘競技というある意味でリアリティのあるやり取り・肉体的なぶつかり合いのシーンにおいては容赦なく出血や骨折が描かれますし、過去のイジメの描写も恐ろしく生々しく、ストーリーに説得力と迫力を与えています。このあたりに関しても、戦いの中で傷つくことをしっかり描いてきた『なのは』の路線がビビストへと継承されていると言えるでしょう。
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 さて、本題のビビストのストーリーについてみていきましょう。ビビストのストーリーの主軸となるのは、幼馴染だったフーカとリンネのすれ違いです。気弱で優しかったはずのリンネが、ある時期からイジメに遭ったことをきっかけに強さに固執するようになって「嫌な目をするようになった」ことがフーカには我慢ならなかったのです。そのきっかけとなった過去のエピソードではかなり強烈なイジメの描写もさることながら、大切なものを失ったリンネが決意して、いじめっ子たちを血祭りにあげた第4話が非常に衝撃的でした。しかし、暴力に対してそれを上回る暴力をぶつけるという選択を取ったリンネは、この時点で明白に間違えています。
 確かに、時には理不尽に襲いかかってくる暴力を跳ね返すために、その種の強さが有効なこともあるでしょう。実際に、過去の『なのは』シリーズでは問題解決のための必要な武力を身につけることは大きなテーマでした。しかし、力はあくまでも手段の1つでしかなく、万能ではなければ、ましてや目的そのものにはなりえないのです。この点で「私が弱かったがために起こったあんな不幸を二度と繰り返さないために」と弱い自分への否定を出発点として強さを求めたリンネの決断には欠陥があることは、客観的にみていれば容易に気づくことができる点です。

 そんなリンネを指導することになったコーチのジル、彼女の指導も実はリンネが本当に必要としていたものとは全く逆の方向を向いているのです。ジルの才能至上主義は、言い換えるともともと強い人間がもっと強くなるためのものに過ぎません。また、その強さとは競技の場で勝つことを目的にしている以上、競技の場の外の問題に対しては無力なのです。問答無用の強さで相手を否定するというやり方は、自分より強い相手の前では無力ですし、そもそも強さとは単一の尺度で測ることのできるような概念ではありません。単純にあの格闘競技界においても、リンネは勝ち続ければいずれジークリンデのような別格の強さの持ち主に当たることになったでしょうし、そもそも競技の場から出れば(ビビストには登場していませんが)高町なのは八神はやてといった、数多の実戦をくぐり抜けてきた、別次元的な強さの持ち主がいる世界です(これはプロ格闘家といえど拳銃でも出されれば無力、という現実と対応します)。
 そもそも競技の事しか頭にないであろうジルの目的意識が明後日の方向を向いていることもさることながら、リンネがリングの上でどんなに強くなろうと、それは「誰にも見下されない、幸福を奪われない」ことを保証してはくれないのです。
 リンネがある意味不幸だったのは、才能に恵まれていたがゆえに、ジルのもとで「強くなる」ことが上手くいってしまったことです。リンネはほぼ全勝の戦績を積み上げることで文句なく「強く」なったのですが、当然そのような手段は幸福を手にすることには繋がらず、彼女の目はますます濁っていくわけです。幸福を守るために強さを求めたことが、自身から幸福を遠ざけていたのではあまりにも本末転倒です。
 もうこうなってしまえば、行くところまで行く覇道を成すか、決定的な敗北を食らって思い直さざるをえなくなるか――道はそのどちらかしか残っていません。そして、この「決定的な敗北」が第8話で訪れます。しかもリンネを倒したヴィヴィオは、フィジカルには恵まれず決して格闘技向きとは言えない人物とされています。しかしヴィヴィオは「目の良さ」という固有の長所を伸ばすための努力を積み重ねた、独特の強みを持っています。そんなヴィヴィオの強さとは、先祖や「ママ」や仲間たちから与えられ、育んでもらった今の自分への肯定感に根ざしているものなのです。彼女は、ひたすら単一的な強さを突き詰め続けることで他を圧倒すればいいという発想のリンネ/ジルとはあらゆる点で対照的と言えます。

 話は少し脇道にそれますが、本作でヴィヴィオとリンネは「努力の人と才能の人」といった構図で対比されています。単にフィジカルに恵まれていることを才能と呼ぶべきか、という問題はさておき、ヴィヴィオのような特殊な「目の良さ」というのも割と希少な才能ではあるのです(それも、努力である程度補えるフィジカルとは違った性質のそれです)。
 しかし、才能に気づくことができるかどうかや、それを活かすことができるかはさらに別の問題です。努力で身につける、技術にせよフィジカルにせよ、それをどの程度モノにできるかは各人の素質次第です。そして逆もまた然り――つまり資質をどのように開花させることができるかもまた、努力の仕方次第なのです。これは万事に共通する原則と言えるでしょうし、したがって自分の資質と目的をしっかり踏まえた上で努力を積み重ねる必要があるのだ、という話になってくるのです。ナカジマジムの選手たちはみな、このことに自覚的です。なので彼女らは自他に対して肯定的でいられるため、明るく楽しそうにしているのです。

 以上のような見方に立つならば、ヴィヴィオとリンネの間にあった決定的な差とは、出発点が肯定だったか否定だったかだと言えるでしょう。リンネがもし物分りの良い娘だったら、8話での敗北から、自己と他者を否定することに立脚した自身の間違いと限界に気づいて路線変更することができたでしょう。しかし「涙で曇った」彼女の目は、なおそこに気づくことができません。ならばその目を覚まさせることができるのは、幼馴染の想いのこもった一撃(ストライク)――これがViVidStrike!の着地点となるわけです。

 傍から見ていればごく単純な正解でも、あるいはそれが言葉で簡単に説明されても、当事者がそれに気づいて納得することは全く別の難しさがある場合があります。それは、時に過去の出来事に対する強い否定に根ざした脅迫的な思い込みが原因だったりするのでしょう。それを打ち破り、今へ、そして未来へと目を向け、肯定へと転じるためには、言葉では言い表すことのできない「なにか」が必要となるのです。そのためにリンネには10話から11話にかけての試合の中で自ら得た体験が必要だったのです。
 そこに至るまで、リンネは多く間違え、たくさんの時間を使いました。しかしその中で得たものは無駄ではなく、例えば一心に強さを求めた日々も「本当は楽しかった」と肯定の内に回収することができました。「強さ」ばかりを求めて格闘競技の中で培ってきたものは、今後はより豊かなものの一部として彼女の中に残り続けるでしょう。そのように、間違え、迷った日々もこれから先の幸福の一部としていくことができる場として、ビビストは競技格闘を舞台にしたことで、これほどに健全な成長物語をまっすぐ描くことができたのでしょう。

 否応なく掴んだ正しさを守るしかなかった初期『なのは』、そうして培われた精神の導きと継承が行われたStrikerSの続きにあるものが、迷い間違えながらも自ら掴み選び取る、精神の再発見の物語がViVid Strike!なのです。そういう意味で、ビビストはなのはの娘としてのヴィヴィオの親離れ・独り立ちの物語でもあるわけです。

 ところで、何者にも見下されないための強さを求めたリンネも、そんなリンネにもう一度向かい合おうとしたフーカも、当初の目的からすれば12話の時点で格闘競技をそれ以上続ける必要はもはやありません。しかし、彼女らは依然として未来をみて、競技に打ち込み続けます。これは競技に接する中で知った楽しさであるとか、競技を通じて得た新たな絆によるものです。一心に打ち込むことは楽しくあるべきですし、何かを求めるということによって、求めたこと以上のものが得られることこそが本当の幸福と言えるのではないでしょうか。だとすれば、幸福とはそれ自体を望むものではなく、正しく「ある」ことによって自然と得られるようなものなのでしょう。

 ここで言う「正しくある」ということは、過去に囚われて内に篭り、自他を否定するような在り方ではなく、素直な目で世界をみて、自分を肯定し他者との関わりを開いていくということでしょう。


「恐れることはない 私が共にいる」