レプリカ、あるいはオリジナル

久しぶりにCDを買いました。
これです。

坂本真綾LIVE TOUR 2015-2016“FOLLOW ME UP”FINAL at 中野サンプラザ

まぁ最初に述べておくべきことがあるなら、控えめに言って超最高だったということでしょうか。
坂本真綾のライブ音源というのはそもそもそんなに多くなく、ラジオ等でも明るくも物静かで上品な話し方をする人というイメージがありました。そこに来てこのCD、かなりテンションの高まりを感じる、「はっちゃけた」と言っても良いであろう歌い方をしている曲が多く、少なからずこれまでのイメージとのギャップはありました。しかしそこに何のおかしさも感じさせない、むしろこれこそ彼女のあるべき姿と納得せざるを得ないような圧倒的な完成度です。それはテンションに任せた無軌道なものではなく、確固たる20年間の(!)キャリアに裏打ちされた歌手・坂本真綾の在り方によるものでしょう。もうネットスラングで言うなら「尊い……」の一言に尽きます。


歌詞ブックレットの表紙の写真。尊い

さて、ナンバーについてですが、まぁ今の坂本真綾を形成する曲の数々がぎゅっと凝縮されているといった納得の選曲です。「光あれ」が無いのはちょっと意外でしたけどね。あとはやっぱり「マジックナンバー」大好きなんですね、とか「色彩」が神々しすぎる……とか、ラストに「ポケットを空にして」は直前のMC含めてやはり完璧に完全……といったところでしょうか。

ところでそんな中で、私的に衝撃の一曲がしれっと混じっているではありませんか。
そう、「ちびっこフォーク」が入っている!!!!

……などと書いて驚きを共有できる人は殆ど居ないかと思いますが、まぁ説明しましょう。
「ちびっこフォーク」は2003年のアルバム「少年アリス」(これは地味ながら超名盤です)の最後の方にひっそりと収録されたきり、ベスト等でも特にお呼びがかかることはなく、また地味で暗い曲なのでライブ向けとも言い難いでしょう(まぁ私は地味とは思ってませんけど!)。
そんな多分圧倒的に知名度が低そうな(実際どうかは知りませんが)この曲、私はずっと大好きだったんです。世界の圧倒的な不条理性に晒された「ぼく」のあるべき姿を悲壮と言っていい決意の言葉で描き出す歌詞と、それを物悲しくも美しい歌にした坂本真綾
私の坂本真綾ファンとしての立ち位置を、かなりの程度左右したと言ってもいいこの曲が、13年の時を経て彼女のひとつの集大成とでも言うべきライブで演奏されたことは私には衝撃的な出来事だったわけです。

彼女はなぜこの曲を今になってもう一度歌おうと思ったのか?完全に私の想像、いやもはや妄想ですが、私の中ではこれにはごく最近(2014年)の曲「レプリカ」が関わってるのではないかという事になっています。「ちびっこフォーク」は作詞が本人ではなく一倉宏というライターがクレジットされています。この詞がこの形になるのに坂本真綾がどれほど関わったのか、あるいは全く関わっていないのか、それはわかりません。一方で「レプリカ」は本人作詞と明記されています。そして私の中で、これらの二曲は完全に表裏一体のペアとでも言うべき関係にあるのです。つまり、仮説はこうです。坂本真綾は何らかのきっかけで「ちびっこフォーク」のことを思い出し、「レプリカ」を書いた、あるいは「レプリカ」を書いたことがきっかけで「ちびっこフォーク」のことを思い出したのではないか。であるならば、表裏一体の片方「レプリカ」を歌うからには「ちびっこフォーク」を入れない手はあるまい、と。
はい、妄想終わり。閑話休題

では何故私は「ちびっこフォーク」と「レプリカ」に表裏とまで言う共通点を見出したのかです。あ、歌詞は「うたナントカ」とか「歌詞ナントカ」で適当に検索して適宜参照して頂ければと。
「ちびっこフォーク」のテーマは、どうしようもない不条理な世界に埋もれ、消えてしまいそうな実存を拾い上げて、世界そのものと対峙するということです。ここではフランツ・カフカアフォリズムが引用された上で、「すべてを捨てて戦うだろう/銃を捨てて戦うだろう」という悲壮な決意の言葉が繰り返されます。また、カフカに寄り添ってやや深読みするならば、世界に対して敵対してしまうような在り方へと(人類が)進んでしまったことが最初の誤りだったということができそうです。

「レプリカ」はどうでしょうか。自ら(人類)の営みにがんじがらめに囚われる中で、いつしか確かな存在が見失われ、レプリカかオリジナルかも区別がつかなくなった、いわば世界の無意味さに埋没する実存が、決定的に失った何かを「もう二度と戻らないそんな気がするだけ」と言いつつも自他を肯定することで証明を再び……否、むしろ新たに獲得することが「さあ響け」までの意味だと解釈します。

つまり失われそうな実存を拾い上げるという点で共通しつつも、拭い捨てることのできない過ちのツケを背負い、ある種の諦観とともにそれでも負け戦を戦い抜く決意が「ちびっこフォーク」であるのに対して、失敗と罪を認めつつそれらを丸ごと受け入れ肯定した上でその先へ向かうことを宣言するのが「レプリカ」なのです。これらは同じテーマに対する2通りのアンサーであり、この点で裏表の関係にあると言えるのです。また、「拾い上げ」のためのキーとなるのが他者との関係、つまり「ちびっこフォーク」における「僕はここにいるよ」であり、「レプリカ」における「ぶつかり交わり僕らは進化する」という点での対応も可能でしょう。また、ダメ押しとばかりに述べておくと「武器を向けた標的が〜」は「銃を捨てて戦う」理由として回収されえます(つまり、こう考えるなら「レプリカ」は難解な「ちびっこフォーク」の詞に解説を与えているという構図になるのです)。
では他者との関係による実存の再獲得というテーマにおいて、肯定の方策を開いた「レプリカ」は「ちびっこフォーク」より進歩したのだというべきでしょうか。私見ですが、そうではないと思います。何故ならば「ちびっこフォーク」も、いかに悲しげで希望のない戦いに見えようと、そこにあるのは実存への肯定であることは変わりないからです(もしそうでないならば、全てを捨ててまで「戦う」ことを宣言する理由がないからです)。つまり一見正反対であるこれらのアンサーはやはり実は本質において同等であり、言ってしまえばそれは「表現の違い」でしかないのです。
なお、「レプリカ」は「ちびっこフォーク」の上位互換ではない、という主張は坂本真綾がこの2015-6年のライブにおいて「レプリカ」だけでなく「ちびっこフォーク」も歌ったことによっても支持されるのではないでしょうか、と身勝手な解釈のひとつも提示しておきましょうか。
ここにおいて、では似たことを歌っている「レプリカ」は「ちびっこフォーク」のレプリカなのか?という問など無意味であることは論じるまでもないでしょう。そもそも世界には完全なオリジナルなど存在しませんし、少しずつ何かのレプリカであるものたちを拾い上げ、オリジナルとしての意味を与える/見出すのが実存としての私たちとの関わりなのですから。