ビブリオバトル原稿『キノの旅』

某所で行われたビブリオバトル、5分用原稿。
テーマは「哲学に関する本」


 皆さんは、将来有望な少年少女を哲学の泥沼……もとい道、に引き込もうと思ったら手始めにどんな本を与えればいいと思いますか?(もっとも、いい大人としてそんな事をすべきかという話は脇に置いて、ですが)
 人によって色々答えはあるでしょうが、私の答えはこれです。
キノの旅』です。
 このお話は、必ずしも哲学を題材にしたものではありませんが、今から思えば14〜5歳の頃に私がこのシリーズに出会っていたことは、私の後々の「哲学すること」の下地を作ったのだと思います。そういう意味で、少なくとも私にとっては、この本は哲学に深く関係していると言ってもいいでしょう。

 ところで、少し本の話からは逸れるようですが、「哲学的」とか「哲学する」ということの本質、あるいは要件とは何でしょうか。
 「哲学」の重要なポイントの1つは、「当たり前」から離れるということだと私は考えています。あるいはすでに成立しているモノの土台自体を疑いうる視点を持つことと言ってもいいでしょう。それは実は、「アレは正しくてコレは間違っている」式の議論とは質において一線を画すものです。(私には不思議なことなのですが、この違いがサッパリ分からないという人は多いようです)

 何の話か。そう、『キノの旅』の紹介です。
 この作品は短編連作形式のライトノベルで、旅人の主人公キノが、喋る二輪車の相棒エルメスと共に様々な国を訪れ、3日間だけ滞在して立ち去るという流れが基本となっています。キノは訪れたその国の中での出来事に、自分から深入りするようなことはほとんどなく、また3日というごく短い滞在期間からしてもキノの立場はあくまで通り過ぎるだけの部外者なのです。
 さて『キノの旅』という作品の最大の特徴とは、やはり出てくる国々の個性的なことでしょう。キノが訪れる大概の国には、その国独自の、極端なまでに戯画的とも言える奇妙な習慣やルールが存在しますが、その国で生きている人々のほとんどがそれをあたり前のこととして日々を営んでいるのです。
 ほんのすこしの例を挙げると「人を殺すことができる国」では法律で殺人が禁止されていない国が登場します。現実にはおそらく存在しないそんな状況で、国民はどのように生きていると思いますか?
 「分かれている国」は、一つの国が山側と海側に分かれて対立しています。理由は山側の人々はゾウを狩って食べる習慣があり、海側の人々はクジラを狩って食べる習慣があり、それぞれ相手の習慣は許されない野蛮な行為と考えているからです。彼らは愚かでしょうか?
 他にも、あらゆる物事を国民全員の多数決で決めることにした「多数決の国」や、働かなくても生きていけるほど技術が発達した「仕事をしなくていい国」などなどが登場します。余談ですが基本的にド直球でありながらユーモラスなこれらのタイトルは、本シリーズの面白い所の1つだと私は思いますし、作品のスタイル自体にも言葉遣いなどに妙な独自ルールが色々敷かれているという入れ子構造になっているところも特筆に値します。

キノの旅』に登場する国々はどれも極端で非現実的です。しかし、ちょっと考えてみれば現実にも似たような事はあるな、ということは少々賢い中学生なら充分に気づけます。このことに自ら気づいたとき、当たり前は当たり前でなくなるのです。
 それぞれの奇妙な「当たり前」を生き、正しい−間違ってるという対立の内部で苦悩したり争ったりする人々を、部外者として傍観していく外部の視点を体験すること。これが『キノの旅』の哲学的な点だと私は思っています。

アニクリvol.5.0寄稿に際して:個人的で詩的なものとしての「不条理

アニクリ@夏コミ:アニメと音楽とバグと on Twitter: "入稿完了いたしました。アニメクリティークvol.5.0 「アニメにおける資本・文化・技術/不条理×ギャグアニメ」特集号、発刊です。5/7、東京文フリにてお待ちしています。 #bunfree
https://t.co/RdHCLyJiVg… https://t.co/PpGkf2PsH3"

 アニクリvol.5.0寄稿させていただきました。5/7東京文フリ カ-31~32です。
 「不条理な」作品の、条理が不在であるがゆえに開かれる可能性について論じた「不条理という土嬢に顕れるもの」と、『フリップフラッパーズ』の作品紹介、あるいはひとつの楽しみ方を提示するコラムだかエッセイみたいな、短めの「燦めく個々のSerendipity」の2本です。

 ところでいきなり根本的なところなのですが、「不条理」とはなんでしょうか。
 字を素直に解釈すれば、条理が不在なこと、あるいは条理に反したもののことでしょう。つまり理屈に合わない/説明できないとか、当然そうなるべきところでそうならないといったものは不条理と呼ばれるべきでしょう。
 「不条理という土嬢に顕れるもの」では、広く受け入れられるような分かり良い作品を条理的な作品と位置づけて、その対極としての不条理な作品のもつ可能性について論じました。
 本ブログで私は言語について、合理的に共通解釈を導くことのできる「公共言語」と、そういったルールから外れて使われ、それゆえに意味解釈の必ずしも一定しない「詩的言語」という分類を提唱したことがあります。この背景には私の根本的な感覚として、言葉には完全に載せることのできない何かがあって、そこにこそ個人の本質的な部分が宿りうるのだというものがあります(「詩的言語」という用語は「私的言語」のパロディであり、詩的な言葉は、発するにせよ受け取るにせよ極めて個人的な営みであるということを強く含んでいます)。

 今回寄稿した論考における条理-不条理の対立は、私にとってはこの公共言語-詩的言語の対立とパラレルでもあります。
 しかるに、詩が時に言語のルールを逸脱し、一定した解釈を拒み/読み手にその多くを委ねつつ、その裡に驚くべき豊かな意味を秘めて感動を呼び起こすことがあるのと同様に、不条理な作品とは時に条理的作品では思いもよらないようなものをもたらしてくれる可能性を秘めているのではないか。これが今回のアイデアです。

 さて、条理に沿った作品と違い、不条理な作品とは普遍的な解釈が成立しないものです。つまり逆に言えば解釈は受け取り手の側に依存しているのです。であれば、より豊かな意味を引き出しうる不条理さとはどのようなものなのか?という問いが立てられると同時にこの問いは、そうした「詩的な」不条理さを我々はどのような姿勢で享受すべきか?という受け手の側への問いともなりえます。あるいは、そもそもこのような場において顕れるものとはなんなのか?という意味論的な問いにも変化しうるのです。

 冒頭でも述べたように、不条理という言葉自体がかなり幅のある解釈を許す用語でありますが、今回はそんな「不条理さ」を大まかに2つの作品の性質に仮託した形となります。すなわち、物語的なお約束の破壊という意味での不条理として『えびてん』を、そしてそもそも条理の不在した日常系の代表として『ゆゆ式』をとりあげました。
 これら2作品の性質と魅力を分析することで、「不条理」の持つ可能性(それは条理に対するオルタナティブであるという点は、アニクリvol.5.0の特集に私がこの寄稿を思い立った理由でもあります)を示すことが「不条理という土嬢に顕れるもの」の狙いです。

 また、「燦めく個々のSerendipity」では『フリップフラッパーズ』をとりあげ、こちらはより私個人の鑑賞体験に寄せた形で、この種の不条理作品のひとつの楽しみ方を提示したいと思いました。いわば「不条理という〜」が理論編とすれば「燦めく〜」は実践編のような趣もあります。したがって、特集の関係で「燦めく〜」が前に掲載されていますが、こちらを後回しにしていただいたほうがより読みやすいかもしれません。

 以上、簡単な紹介ですが是非本誌の方をお手にとっていただければ幸いです。

ViVidStrike!:幸福と強さを求めた少女たちの物語

 ViVidStrike!(以下「ビビスト」)というアニメは『魔法少女リリカルなのは』シリーズの直系に位置づけられるべき作品と言えるでしょう。それはなのはの義理の娘であるヴィヴィオが重要なキャラクターとして登場するとか、魔法文明の設定がある程度共有されているとかいう点でスピンオフである以上に、その精神性において明らかに受け継いでいるものがあるという点において、『ビビスト』は『なのは』の系譜なのです

 『なのは』というシリーズが一貫して扱ってきた物語とは、思いを伝え、正しいと信じることを通すために起こるぶつかり合いと、そのために全力を出したからこそ導かれる調停、ハッピーエンドという構図に支えられています。一方で、ビビストまでを含めたなのはシリーズにおいて、登場人物が掴むその正しさにはある変化が見られます。初代や2期A'sでは、なのは、フェイト、はやてといったメインの面々もベルカの騎士たちも含め、彼女らの直面する問題は否応無しの深刻なものでした。彼女らはほとんど選択の余地なく立ち向かう決断をすることを強いられ、迷う余地すらなく自分の信じる正しさを掴みとることになります。そんななのはたちが大人になり、導き手としての立場につく3期StrikerSではここに変化が現れます。StrikerSは、主役であるスバルらが時に迷い、失敗しながら大人たちに導かれて成長するという物語であり、世代を超えた精神と技術の継承という構図が現れます。

 さて、ビビストは明らかに『なのは』シリーズの系譜の作品でありながら、初めて高町なのはが登場しない作品となりました。無論、ヴィヴィオの保護者としての存在は示唆されていますし、ここまでなのはシリーズを観てきた人ならば、ナカジマジムの明るく平和な空間ができるまでに多くのことがあったことを知っています。ビビストにおいて、導き手である大人たちの姿が遠景へ後退したことは、継承というStrikerSのテーマから先へ進み、子供たち自身での迷いと失敗を繰り返しながらの「再発見」が描かれるために必要だったと見ることもできそうです。
 また、別の側面としてViVid系列のストーリーは格闘競技を題材としているため、敗北が取り返しのつかない結果になるシビアな実戦の場を描いてきた『なのは』3作と違って深刻になりすぎない、失敗もできるというある種の健全さを押し出すことができたという意味もあるでしょう。
 とはいえ、格闘競技というある意味でリアリティのあるやり取り・肉体的なぶつかり合いのシーンにおいては容赦なく出血や骨折が描かれますし、過去のイジメの描写も恐ろしく生々しく、ストーリーに説得力と迫力を与えています。このあたりに関しても、戦いの中で傷つくことをしっかり描いてきた『なのは』の路線がビビストへと継承されていると言えるでしょう。
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 さて、本題のビビストのストーリーについてみていきましょう。ビビストのストーリーの主軸となるのは、幼馴染だったフーカとリンネのすれ違いです。気弱で優しかったはずのリンネが、ある時期からイジメに遭ったことをきっかけに強さに固執するようになって「嫌な目をするようになった」ことがフーカには我慢ならなかったのです。そのきっかけとなった過去のエピソードではかなり強烈なイジメの描写もさることながら、大切なものを失ったリンネが決意して、いじめっ子たちを血祭りにあげた第4話が非常に衝撃的でした。しかし、暴力に対してそれを上回る暴力をぶつけるという選択を取ったリンネは、この時点で明白に間違えています。
 確かに、時には理不尽に襲いかかってくる暴力を跳ね返すために、その種の強さが有効なこともあるでしょう。実際に、過去の『なのは』シリーズでは問題解決のための必要な武力を身につけることは大きなテーマでした。しかし、力はあくまでも手段の1つでしかなく、万能ではなければ、ましてや目的そのものにはなりえないのです。この点で「私が弱かったがために起こったあんな不幸を二度と繰り返さないために」と弱い自分への否定を出発点として強さを求めたリンネの決断には欠陥があることは、客観的にみていれば容易に気づくことができる点です。

 そんなリンネを指導することになったコーチのジル、彼女の指導も実はリンネが本当に必要としていたものとは全く逆の方向を向いているのです。ジルの才能至上主義は、言い換えるともともと強い人間がもっと強くなるためのものに過ぎません。また、その強さとは競技の場で勝つことを目的にしている以上、競技の場の外の問題に対しては無力なのです。問答無用の強さで相手を否定するというやり方は、自分より強い相手の前では無力ですし、そもそも強さとは単一の尺度で測ることのできるような概念ではありません。単純にあの格闘競技界においても、リンネは勝ち続ければいずれジークリンデのような別格の強さの持ち主に当たることになったでしょうし、そもそも競技の場から出れば(ビビストには登場していませんが)高町なのは八神はやてといった、数多の実戦をくぐり抜けてきた、別次元的な強さの持ち主がいる世界です(これはプロ格闘家といえど拳銃でも出されれば無力、という現実と対応します)。
 そもそも競技の事しか頭にないであろうジルの目的意識が明後日の方向を向いていることもさることながら、リンネがリングの上でどんなに強くなろうと、それは「誰にも見下されない、幸福を奪われない」ことを保証してはくれないのです。
 リンネがある意味不幸だったのは、才能に恵まれていたがゆえに、ジルのもとで「強くなる」ことが上手くいってしまったことです。リンネはほぼ全勝の戦績を積み上げることで文句なく「強く」なったのですが、当然そのような手段は幸福を手にすることには繋がらず、彼女の目はますます濁っていくわけです。幸福を守るために強さを求めたことが、自身から幸福を遠ざけていたのではあまりにも本末転倒です。
 もうこうなってしまえば、行くところまで行く覇道を成すか、決定的な敗北を食らって思い直さざるをえなくなるか――道はそのどちらかしか残っていません。そして、この「決定的な敗北」が第8話で訪れます。しかもリンネを倒したヴィヴィオは、フィジカルには恵まれず決して格闘技向きとは言えない人物とされています。しかしヴィヴィオは「目の良さ」という固有の長所を伸ばすための努力を積み重ねた、独特の強みを持っています。そんなヴィヴィオの強さとは、先祖や「ママ」や仲間たちから与えられ、育んでもらった今の自分への肯定感に根ざしているものなのです。彼女は、ひたすら単一的な強さを突き詰め続けることで他を圧倒すればいいという発想のリンネ/ジルとはあらゆる点で対照的と言えます。

 話は少し脇道にそれますが、本作でヴィヴィオとリンネは「努力の人と才能の人」といった構図で対比されています。単にフィジカルに恵まれていることを才能と呼ぶべきか、という問題はさておき、ヴィヴィオのような特殊な「目の良さ」というのも割と希少な才能ではあるのです(それも、努力である程度補えるフィジカルとは違った性質のそれです)。
 しかし、才能に気づくことができるかどうかや、それを活かすことができるかはさらに別の問題です。努力で身につける、技術にせよフィジカルにせよ、それをどの程度モノにできるかは各人の素質次第です。そして逆もまた然り――つまり資質をどのように開花させることができるかもまた、努力の仕方次第なのです。これは万事に共通する原則と言えるでしょうし、したがって自分の資質と目的をしっかり踏まえた上で努力を積み重ねる必要があるのだ、という話になってくるのです。ナカジマジムの選手たちはみな、このことに自覚的です。なので彼女らは自他に対して肯定的でいられるため、明るく楽しそうにしているのです。

 以上のような見方に立つならば、ヴィヴィオとリンネの間にあった決定的な差とは、出発点が肯定だったか否定だったかだと言えるでしょう。リンネがもし物分りの良い娘だったら、8話での敗北から、自己と他者を否定することに立脚した自身の間違いと限界に気づいて路線変更することができたでしょう。しかし「涙で曇った」彼女の目は、なおそこに気づくことができません。ならばその目を覚まさせることができるのは、幼馴染の想いのこもった一撃(ストライク)――これがViVidStrike!の着地点となるわけです。

 傍から見ていればごく単純な正解でも、あるいはそれが言葉で簡単に説明されても、当事者がそれに気づいて納得することは全く別の難しさがある場合があります。それは、時に過去の出来事に対する強い否定に根ざした脅迫的な思い込みが原因だったりするのでしょう。それを打ち破り、今へ、そして未来へと目を向け、肯定へと転じるためには、言葉では言い表すことのできない「なにか」が必要となるのです。そのためにリンネには10話から11話にかけての試合の中で自ら得た体験が必要だったのです。
 そこに至るまで、リンネは多く間違え、たくさんの時間を使いました。しかしその中で得たものは無駄ではなく、例えば一心に強さを求めた日々も「本当は楽しかった」と肯定の内に回収することができました。「強さ」ばかりを求めて格闘競技の中で培ってきたものは、今後はより豊かなものの一部として彼女の中に残り続けるでしょう。そのように、間違え、迷った日々もこれから先の幸福の一部としていくことができる場として、ビビストは競技格闘を舞台にしたことで、これほどに健全な成長物語をまっすぐ描くことができたのでしょう。

 否応なく掴んだ正しさを守るしかなかった初期『なのは』、そうして培われた精神の導きと継承が行われたStrikerSの続きにあるものが、迷い間違えながらも自ら掴み選び取る、精神の再発見の物語がViVid Strike!なのです。そういう意味で、ビビストはなのはの娘としてのヴィヴィオの親離れ・独り立ちの物語でもあるわけです。

 ところで、何者にも見下されないための強さを求めたリンネも、そんなリンネにもう一度向かい合おうとしたフーカも、当初の目的からすれば12話の時点で格闘競技をそれ以上続ける必要はもはやありません。しかし、彼女らは依然として未来をみて、競技に打ち込み続けます。これは競技に接する中で知った楽しさであるとか、競技を通じて得た新たな絆によるものです。一心に打ち込むことは楽しくあるべきですし、何かを求めるということによって、求めたこと以上のものが得られることこそが本当の幸福と言えるのではないでしょうか。だとすれば、幸福とはそれ自体を望むものではなく、正しく「ある」ことによって自然と得られるようなものなのでしょう。

 ここで言う「正しくある」ということは、過去に囚われて内に篭り、自他を否定するような在り方ではなく、素直な目で世界をみて、自分を肯定し他者との関わりを開いていくということでしょう。


「恐れることはない 私が共にいる」

ユクスキュル雑語り

(*本記事はユクスキュル自身の著作等を1ページたりとも読んでいない人によるとても大雑把な理解によるものです。けして安易に信用してはいけません)


 現在放送中のアニメ、フリップフラッパーズに主人公のペットとして登場するウサギのような奇妙な動物がいる。名前はユクスキュルである。変わった名前だが、これは同名の動物学者が元ネタと思われる。

 その動物学者のユクスキュルが提唱した説は、「環世界説」に代表され、ごく大まかには以下のようなものらしい。

 動物は、それぞれの知覚の有り様に応じた「環世界」を持ち、それぞれの環世界における主体として振る舞う。例えばある種のダニは嗅覚、触覚、温度感覚の3つしか知覚を持たず、このダニには聴覚や視覚は存在しない=このダニの環世界には音や光は存在しない。
 その動物にとって知覚し得ない事象はその動物の環世界には存在しない(当然ながらこれは人間においてもあてはまる)。
 あらゆる動物の行動は、それぞれの環世界においてそれぞれの持ちうる意味に基づいた目的に応じた主体的振る舞いとして説明される。

 この説に基づくなら、我々が生きているこの世界とは、客観性のある単一の世界をそれぞれの視点から見ているというよりも、それぞれの主体に固有な環世界の重ね合わせとして想定されるべきではないかと考えられる。

 ユクスキュルの動物学者としての議論は一見したところ、動物種ごとに固有の環世界があるというふうに読めるようにも思われるが、むしろ個体ごとにも環世界は多かれ少なかれ違っていると考えるべきだろう。つまり人間においても個人個人で固有の環世界を持っているのだ。別々の環世界に生きている以上、個人Aと個人Bが見ているものは別々のモノであるし、それの意味するところも、それに対してとる行動もAとBでは本質的には異なっているのだ。
 だが、私たちは素朴には、人は同じようなモノの見方をしているし、同じような価値観を共有していると思って生活しているしそれで支障はない……いや、そうでないと社会生活が成立しないのだ。
 だから、例えば『フリップフラッパーズ』の序盤でココナの前に突然現れたパピカが、ココナやその他の人々とはまるで異なる行動様式をとり、意味の分からない言葉で世界に意味づけすることは極めて奇異に映る。
 だが、ココナはピュアイリュージョンと呼ばれる様々に様式の異なる世界を巡り、大きく断絶した環世界を生きる人々(?)と交流していく。そうすることで、従来の安定した社会的な世界観は崩れていくことになる。
 『フリップフラッパーズ』序盤で頻繁に登場するペットのユクスキュルは、気ままかつ動物的でしばしばココナの予想できないような行動をとる。だが、ユクスキュルは人間とは全く異なる動物なの明らかだし、基本的にその行動は無害なものに過ぎないので大きな問題とはならない。しかしユクスキュルと人間の行動様式(≒環世界)の間の隔たりは、実は人間と他の動物を隔てる程度のものではなく、全く同じ構造で人間同士をもバラバラに隔てるものであることが明らかになるのだ。別の言葉で言うなら、あらゆる存在は主体Aの環世界に現れる「他者」なのだ。

 隔たりは異常事態ではなく、むしろ前提である。とするならば、私たちは根源的に他者性を有して自身の環世界に現れてくるものたちとどのように関わり、何を共有することができるのだろうか。少なくともこの問いが、普遍的な原則によって答えられるようなものではないことは確かだろう。

(余談)
 ところで、動物学者・ユクスキュルは動物の行動様式の説明においては目的性を強調し、機械論的な説明を排除しようとしたらしい(彼は動物主体と環世界との意味を持った相互交渉を自然の「生命計画」と名づけた)。
 しかしながら、例のダニの行動様式などを見るに、目的とは必要なものだろうか?という疑問が湧いてくる。むしろ目的などという説明は、その環世界に対してメタ的に加えられうる後付にすぎず、したがってその環世界内には存在しないものだと思えてならない。
 少なくとも「かくかくなる刺激に対してはしかじかなる行動を取る」というルーチンのみによって行動は記述されうるのではないのか、と私の脳内でオッカムさんが剃刀を素振りしだすのだ。突き詰めれば「見えるものに対してのみ、できることをする」と簡潔に表現できるであろう環世界説において、目的などという冗長な説明はそぐわないように思えてならない。
……などといった疑問は本人の著作や論文を読めば解決することなのかもしれないんですけどね。

レプリカ、あるいはオリジナル

久しぶりにCDを買いました。
これです。

坂本真綾LIVE TOUR 2015-2016“FOLLOW ME UP”FINAL at 中野サンプラザ

まぁ最初に述べておくべきことがあるなら、控えめに言って超最高だったということでしょうか。
坂本真綾のライブ音源というのはそもそもそんなに多くなく、ラジオ等でも明るくも物静かで上品な話し方をする人というイメージがありました。そこに来てこのCD、かなりテンションの高まりを感じる、「はっちゃけた」と言っても良いであろう歌い方をしている曲が多く、少なからずこれまでのイメージとのギャップはありました。しかしそこに何のおかしさも感じさせない、むしろこれこそ彼女のあるべき姿と納得せざるを得ないような圧倒的な完成度です。それはテンションに任せた無軌道なものではなく、確固たる20年間の(!)キャリアに裏打ちされた歌手・坂本真綾の在り方によるものでしょう。もうネットスラングで言うなら「尊い……」の一言に尽きます。


歌詞ブックレットの表紙の写真。尊い

さて、ナンバーについてですが、まぁ今の坂本真綾を形成する曲の数々がぎゅっと凝縮されているといった納得の選曲です。「光あれ」が無いのはちょっと意外でしたけどね。あとはやっぱり「マジックナンバー」大好きなんですね、とか「色彩」が神々しすぎる……とか、ラストに「ポケットを空にして」は直前のMC含めてやはり完璧に完全……といったところでしょうか。

ところでそんな中で、私的に衝撃の一曲がしれっと混じっているではありませんか。
そう、「ちびっこフォーク」が入っている!!!!

……などと書いて驚きを共有できる人は殆ど居ないかと思いますが、まぁ説明しましょう。
「ちびっこフォーク」は2003年のアルバム「少年アリス」(これは地味ながら超名盤です)の最後の方にひっそりと収録されたきり、ベスト等でも特にお呼びがかかることはなく、また地味で暗い曲なのでライブ向けとも言い難いでしょう(まぁ私は地味とは思ってませんけど!)。
そんな多分圧倒的に知名度が低そうな(実際どうかは知りませんが)この曲、私はずっと大好きだったんです。世界の圧倒的な不条理性に晒された「ぼく」のあるべき姿を悲壮と言っていい決意の言葉で描き出す歌詞と、それを物悲しくも美しい歌にした坂本真綾
私の坂本真綾ファンとしての立ち位置を、かなりの程度左右したと言ってもいいこの曲が、13年の時を経て彼女のひとつの集大成とでも言うべきライブで演奏されたことは私には衝撃的な出来事だったわけです。

彼女はなぜこの曲を今になってもう一度歌おうと思ったのか?完全に私の想像、いやもはや妄想ですが、私の中ではこれにはごく最近(2014年)の曲「レプリカ」が関わってるのではないかという事になっています。「ちびっこフォーク」は作詞が本人ではなく一倉宏というライターがクレジットされています。この詞がこの形になるのに坂本真綾がどれほど関わったのか、あるいは全く関わっていないのか、それはわかりません。一方で「レプリカ」は本人作詞と明記されています。そして私の中で、これらの二曲は完全に表裏一体のペアとでも言うべき関係にあるのです。つまり、仮説はこうです。坂本真綾は何らかのきっかけで「ちびっこフォーク」のことを思い出し、「レプリカ」を書いた、あるいは「レプリカ」を書いたことがきっかけで「ちびっこフォーク」のことを思い出したのではないか。であるならば、表裏一体の片方「レプリカ」を歌うからには「ちびっこフォーク」を入れない手はあるまい、と。
はい、妄想終わり。閑話休題

では何故私は「ちびっこフォーク」と「レプリカ」に表裏とまで言う共通点を見出したのかです。あ、歌詞は「うたナントカ」とか「歌詞ナントカ」で適当に検索して適宜参照して頂ければと。
「ちびっこフォーク」のテーマは、どうしようもない不条理な世界に埋もれ、消えてしまいそうな実存を拾い上げて、世界そのものと対峙するということです。ここではフランツ・カフカアフォリズムが引用された上で、「すべてを捨てて戦うだろう/銃を捨てて戦うだろう」という悲壮な決意の言葉が繰り返されます。また、カフカに寄り添ってやや深読みするならば、世界に対して敵対してしまうような在り方へと(人類が)進んでしまったことが最初の誤りだったということができそうです。

「レプリカ」はどうでしょうか。自ら(人類)の営みにがんじがらめに囚われる中で、いつしか確かな存在が見失われ、レプリカかオリジナルかも区別がつかなくなった、いわば世界の無意味さに埋没する実存が、決定的に失った何かを「もう二度と戻らないそんな気がするだけ」と言いつつも自他を肯定することで証明を再び……否、むしろ新たに獲得することが「さあ響け」までの意味だと解釈します。

つまり失われそうな実存を拾い上げるという点で共通しつつも、拭い捨てることのできない過ちのツケを背負い、ある種の諦観とともにそれでも負け戦を戦い抜く決意が「ちびっこフォーク」であるのに対して、失敗と罪を認めつつそれらを丸ごと受け入れ肯定した上でその先へ向かうことを宣言するのが「レプリカ」なのです。これらは同じテーマに対する2通りのアンサーであり、この点で裏表の関係にあると言えるのです。また、「拾い上げ」のためのキーとなるのが他者との関係、つまり「ちびっこフォーク」における「僕はここにいるよ」であり、「レプリカ」における「ぶつかり交わり僕らは進化する」という点での対応も可能でしょう。また、ダメ押しとばかりに述べておくと「武器を向けた標的が〜」は「銃を捨てて戦う」理由として回収されえます(つまり、こう考えるなら「レプリカ」は難解な「ちびっこフォーク」の詞に解説を与えているという構図になるのです)。
では他者との関係による実存の再獲得というテーマにおいて、肯定の方策を開いた「レプリカ」は「ちびっこフォーク」より進歩したのだというべきでしょうか。私見ですが、そうではないと思います。何故ならば「ちびっこフォーク」も、いかに悲しげで希望のない戦いに見えようと、そこにあるのは実存への肯定であることは変わりないからです(もしそうでないならば、全てを捨ててまで「戦う」ことを宣言する理由がないからです)。つまり一見正反対であるこれらのアンサーはやはり実は本質において同等であり、言ってしまえばそれは「表現の違い」でしかないのです。
なお、「レプリカ」は「ちびっこフォーク」の上位互換ではない、という主張は坂本真綾がこの2015-6年のライブにおいて「レプリカ」だけでなく「ちびっこフォーク」も歌ったことによっても支持されるのではないでしょうか、と身勝手な解釈のひとつも提示しておきましょうか。
ここにおいて、では似たことを歌っている「レプリカ」は「ちびっこフォーク」のレプリカなのか?という問など無意味であることは論じるまでもないでしょう。そもそも世界には完全なオリジナルなど存在しませんし、少しずつ何かのレプリカであるものたちを拾い上げ、オリジナルとしての意味を与える/見出すのが実存としての私たちとの関わりなのですから。

  

哲学的絵図遊び――「論考のアレ」より

私が自分の哲学的立場のトレードマークとしている図がある。このようなものだ。


図1

これは、もちろんウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に登場する図のパロディ(?)であり、ウィトゲンシュタインのそれは以下のようなものだ。

『5.6331 つまり、視野は決してこのような形をしてはいないのである。』


図2

これは「主体は世界に属さない」「視界におけるいかなるものも、それが目によってみられていることは推論されない」ということを表現した図である。

ところで、草稿の方では該当箇所の近くにこのような記述も見られる。

『日常の考察のしかたは、諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相の下での考察はそれらを外側からみるのである(1916年10/7)』

ここで「中心からみる」の意味が一見して明瞭でないのだが、私は「諸対象」を「観測者を取り巻いて存在する世界内の存在」としてとらえた。すなわち、観測者の眼から見られた世界が諸対象の中心から見られた「日常の考察のしかた」なのである。それに対して、「永遠の相の下での考察」とは観測者の眼とは無関係に世界の輪郭線(外側)から世界内に向けられる視線ということになる。
それぞれを図に描き込むとこうだ。

図3

さて、冒頭に出した私の図では、眼(主体)は論考の図とよく似た形をしているが、それは世界内に閉じたひとつの対象として存在するのではなく、世界の輪郭線とシームレスに接続されている。トポロジー的に言うならば、このような主体はあってもなくても同じである。つまり図1は、ある意味においてただの真円と同義と言えるのだ。

図1に、図3で描いたような「考察の視線」を描き入れるとしよう。
主体の線と世界の輪郭線がシームレスであるならば、例えばこのように重ねて描いてしまっても構わない、ということになる。


図4

ところで、図にする便宜上、線同士はすこし浮かせて描いたが、本来数学的には線には太さがない。
であるならば、図4での「中心からの視線」と「外側からの視線」は、完全に重なることが可能だろうか。
いささかふわふわした表現ではあるが、このようなことが、私の哲学的な関心事なのである。なのでこの図は私の哲学的トレードマークにふさわしいと思っている。

あとは、図1に文字を足すとすればこのようにしたい。
「世界とはこのような形をしているのである」

「脳」と書いてあるのは、エミリー・ディキンソンの詩「The Brain is Wider than the Sky(J632)」から貰ったものだ。
曰く「脳は空より広く、海より深い。脳は神様と同じ重さ」である。

  • 以下、余談。あるいは本題。

……ところで、『草稿』を読んでいて『サクラノ詩』に関して思いついたことがあるのでここに書いておきたい。以前の感想記事では曖昧にしか解釈できてなかった部分について、ひとつの読解が成立したと思ったからだ。

「全てがいかなる事情にあるかが、神である」
「もっぱら、私の生は比類のないものである、という意識から、宗教、科学、そして芸術が生じる」
「そしてこの意識が生そのものである」『草稿』(1916年8/1〜2)

世界の在りようを担保する神、私の比類なき生=意識から生じる芸術。世界の意味はその世界に属さない主体によって生じる、とも書かれている。

私の生(=意識)から生じた芸術が、人に寄り添った弱い神によって成立するものとして、では私の生の意味をこの世界から徹底的に追い出した時、私の比類なき生の意味から生じた神は世界の限界に一致し、この世界そのものの神となる。そこにおいて世界の内部にいる私に、もはや意味はない。かくして私の弱い神は、人に依存せずに成立する絶対の調停者である強い神と一致する。

もしやこれが『サクラノ詩』において直哉が人に寄り添った弱い神と生きる芸術を、稟は人に依存しない絶対者としての強い神を主張したにも関わらず、稟が「本当は私だってそうだけど」と言ったことの意味では無かろうか、というような事を考えた。

生に関する全てがひとつの主体/意識として回収されていくとして、生に関係しないもの(「世界それ自身」?)に意味ないし実在は認められるのか。

『サクラノ詩』感想・考察など

<注意!>
この記事は性質上、『サクラノ詩』全編のネタバレを各所に含みます。未プレイ、プレイ途中の閲覧は自己責任でお願いします。

また、ネタ本・副読本に関しては別の記事をすでにあげていますのでそちらもよろしければどうぞ。

前作、『素晴らしき日々』が「自己(自我)」に主要なテーマが置かれていたのに対して、本作「サクラノ詩』のテーマは「他者」です。また、そのためのサブテーマまたは重要なモチーフとして、絵画というものがクローズアップされています。更には絵画とは他者に訴えかける、言葉を超えた力を持つものとして捉えられる点も、『すば日々』で言語に注目されていたこととも対応していると言えましょう。
あるいは、別の切り口としては「幸福」がもう一つの主題と言って良いでしょう。パッケージの裏面にはこのようにあります。

”幸福に生きよ”のその先、”幸福な生”を体現する”日常”反哲学的でごく自然な日常の物語とはーー。

「幸福に生きよ」とは、『すば日々』で繰り返されたウィトゲンシュタインの言葉であり、ここでも本作が『すば日々』で語られたことのその先を目指すことが宣言されています。
これらが大まかに言って『サクラノ詩』の物語が語ることの骨子であることを踏まえて、各章の感想をまとめていきたいと思います。

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