識ってなんだ。『唯識』

今度の哲学道場での発表(6月16日)に向けて唯識のことを勉強している。
唯識の分析によると我々の精神作用と、ひいては世界のすべては阿頼耶識から生じていると言う。阿頼耶識は末那識を生じ、末那識からは意識や五識(≒五感)が生じるが、それらのあり方はすべて阿頼耶識の内容に依存する。
従って、仮に同じ物を見たとしても異なる阿頼耶識から生じた「見え方(境)」も異なる。人の阿頼耶識からは障害物に見える川も、魚の阿頼耶識が見れば住処に見えるといった具合だ。
非常にざっくりと、現状での私の理解を言ってしまうと識とは「認識の様式」のことだ。

私の読んだ唯識の解説本は、この阿頼耶識と遺伝子の類似性を指摘している。つまり遺伝子は、自身の生存に有利な方向に個体を誘導するために過去の経験に基いて、様々な認識を作り出しているのだといった具合だ。
行動の影響は阿頼耶識に蓄積し、新たな行動の元になるという循環構造を阿頼耶識縁起といい、こうして行動や認識の癖(業)が付くことを熏習と言うらしい。

認識や行動の癖が極まると、一定の入力には必ず同様の出力をするようになるだろう。ところで、入力に対して出力が一義に決まるような物を、私たちは「式(あるいはプログラム)」と呼んでいる。遺伝子はプログラムのようなものとも言われるし、識は遺伝子のようなものである。我々の認識や行動は、自我のあずかり知らないところにある阿頼耶識というプログラムによって決定されているとしたら?

余談だが識が式と同音異義語である点だが、偶然なのかもしれないが、某新伝奇ノベルでこれらが表裏一体の名前として使われていた点には実はこんな意図が隠れていたのではなかろうか……