「魔法少女まどか☆マギカ」 何かを選び、何かを願い生きるということ

 魔法少女まどか☆マギカ(以下まどまぎ)を、本放送で観て以来、通して観た。脚本も演出もとにかく素晴らしい作品だと思う。以下、未視聴者への配慮は一切無いので、そのような方には一言「いいから取り敢えず観とけ」とだけ言わせて貰いたい。


 まどまぎが作品として優れている点の1つは、観ようによって様々な側面から読み取ることができるところにあると思う。これはエンディング解釈について後に述べる、表解釈と裏解釈に顕著だろう。

 まず、大まかに言ってまどまぎのストーリーは「選択」を巡って揺れ動く少女たち(とくにまどか)を描いている。例えば第一話でリボンの色を選ぶシーンがある。些細な選択だが、このリボンは最終回の伏線にもなって強調されている。この時の母子の会話では「隠れファンがいると思うのが美人の秘訣」と語られる。この会話を通して私は「生きるということは、必ず何かを選び続けることで、この選択を能動的・意識的に行い、結果を肯定できることこそが強く生きるということ」という思想を読み取った。

 意識的な選択という視点から、もう一点。
 3話Aパートで、さやかの望みの曖昧さにマミが意外なほど強く苦言を呈するシーンがある(さやかは恭介の回復自体を願っているのか、恭介の恩人になりたがっているのか?)。人が利他的な行動を取るとき、純粋にその行動を取りたくてそうしているのか、見返りを期待してやるのか。この点での御為ごかしが厄介なのは、本人も周囲も「善いこと」をしていると勘違いしてしまうところだ。そうした勘違いは得てして「こんな筈じゃなかったのに」という歪みを生むものだ。
 そういう、望みの内容に曖昧さを持っていたさやかはマミの指摘通りの乖離に悩み、結果的に破滅するワケだが、そのさやかに対置されるのが(一見したところ)純粋な利己主義者の杏子という構図は良く出来ている。杏子は最期まで、自分自身の望みに従って行動するという原理を貫けたように思え、好感が持てる。


 さて、なんの救いも無いウロブチイズム全開の世界観は、最終回についに変身するまどかの願いによって覆される。どんでん返しのハッピーエンド、まさに虚淵玄が望んだ豪腕によって宇宙の法則をねじ曲げたハッピーエンドである。

……ように一見、見えるでしょう?

 しかし、私はそうではなく、裏を読めばアレは実は「救いなんてねぇよ」という話じゃないかと思うのだ。
 何故ならばまどかの祈りは、世界から魔女を消すことで絶望を消した……ように見えて、不幸を見えないところに動かしただけではないか。つまり本当の敵である「熱力学第二法則」を棚に上げて「インキュベーターと魔女システム」という分かりやすい敵にギャフンと言わせただけではないか。その証左に、新しい世界では魔女の代わりに魔獣が跋扈し、魔法少女は相変わらず人知れず戦い、消えていく存在としてあり続ける。

「見える敵にギャフンと言わせて、世界は良くなった」
コレが表解釈。こう読んで、ヒロイックなまどかの姿に感動するのも1つの見方で、良い話だ。

だが「見えていた問題を乗り越えたけど、実は何も解決しない」
この裏解釈こそが、意図されていたかどうかにすら関わらずまどまぎという作品を通じて描き出されていいる事実だと思う。

 では、まどかの願いは間違いだったのだろうか。
 仮にまどかが「エントロピーが無い世界に」と願ったらどうなるだろう? もしそれが叶った場合、新しく出来た世界には不幸はなくなる。この宇宙では生命も誕生しない。何故なら生命とはエントロピーを外に汲み出す事によって生き残る装置だから。こうしてエントロピーの覆った、不幸のない新宇宙を作ったとして、それを享受する者がいない。もっというとそういう宇宙のことを理解できないので願いが叶ったかも分からない。というのも、変化の前後でそれらが同一のものだと理解するには、大体が同じで変化した部分だけがハイライトされ得る構造になっていないといけないからだ。

 最終回、宇宙が作り替えられた後、ほむらだけが前の宇宙の記憶を引き継いでいることこそが「変化の前後で同一視できる」ことを可能にする「変化しなかった項」として働いているのだ。言うまでもなく、奇跡に意味付けをするような「変化しなかった項」を残してしまったことは新宇宙の創造を不完全なものにし、奇跡の価値を転落させるものだ。この矛盾した構造が、この手の奇跡が原理的に不可能である所以である。

 ただし、ほむらの個人的な視点から見ると、少し事情は変わるかもしれない。新宇宙においてはほむらだけが知っている旧宇宙での出来事は「空想と区別がつかない」とキュウべえは指摘する。ほむらの視点から旧世界の物語(そしてまどかの存在)を真実と信じることは、換言すればほむらの個人的な宗教と言える。
 つまり、1つの宇宙をメタ的な視点に収めてそこで起こったことを真実として信仰すると宇宙=神と言い換えることができそうだ。そして信仰が個人の内にのみ成立するものだとすれば宇宙、神、個人の3つの概念は等価となる。
 つまり、「神」とは個人が宇宙を把握し、納得するための概念なのである……暴論だろうか。

 とにかく、色々と書いたが、まどまぎを通じて描かれていたのは究極的には「奇跡を願うことの矛盾」であり、代わりに「選び、信じ、肯定する」事の強さだったのではないだろうか。
 このことを端的に言い表しているのが、最終回のまどかの言葉である。

「希望を抱くのが間違いだなんて言われても、私、そんなのは違うって何度でも言い返せます」