『サクラノ詩』副読本いろいろ
『サクラノ詩』全編終了しました。元ネタが幅広い分野に渡り、かなり色々な本を参照したので、まとめておきます。ここでは書籍に関してのみで、絵画や音楽は含みません。
『春と修羅』
オープニング他随所に登場。「III ZYPRESSEN」はこの中の『春と修羅(mental sketch modified)』より。
青空文庫
『銀河鉄道の夜』
「III Pica-Pica」「III A Nice Derangement of Epitaphs」など多数。「鳥を取る人」「さそりの心臓」など。
青空文庫
こちらはわりと有名なアニメ映画版。エンディングでの『春と修羅』の一節の朗読や、糸杉らしきものが背景に映るなど、アニメ版独自と思われる関連付けも見いだせる。
『在りし日の歌』
「III Marchen」など。直哉が口にする「愛するものが死んだ日には〜」はこの詩集の中の『春日狂騒』、「III Marchen」で最後の夜に優美が口にする詩は同じくこの中から『ひとつのメルヘン』
青空文庫
『赤ずきんちゃん』
「III ZYPRESSEN」「III Marchen」で里奈が寝ている優美に語り聞かせる童話。ペロー版では赤ずきんが狼に食べられて終わるが、「ZYPRESSEN」の方では、最後に狩人が出てくるグリム童話版の結末を優美が口にする。
「III A Nice Derangement of Epitaphs」はデイヴィドソンの論文名より。
『A Nice Derangement of Epitaphs』は下記論文集に収録されているが、論文の内容自体はあまり本編と関わりない模様。
デイヴィドソンの入門書として。「NDE」の意味についてもある程度理解できる。
引用文献ではないが、他者問題に関する哲学への入門としてはこの本も良いかもしれない。デイヴィドソンの『NDE』に関する言及もあり。
「IV What is mind? No matter. What is matter? Never mind.」
英語圏の心の哲学や心理学関係者の間ではよく知られたフレーズと言われる。もともと誰の言葉なのかは不明だが、ラッセルの自伝には祖母が形而上学を否定するために言った言葉として登場する。
http://russell-j.com/beginner/AB12-130.HTM
『嘘の衰退』『芸術家としての批評家』は青土社『ワイルド全集IV』(入手困難)に収録。『芸術家としての〜』は前半部だけなら澁澤龍彦文学館(7) ─ 諧謔の箱でも読める。
「IV What is mind? No matter. What is matter? Never mind.」「V The Happy Prince and other tales」などで、主に稟が語る芸術論はここから。
『幸福の王子』
「V The Happy Prince and other tales」は「幸福の王子」が収録された童話集の書名から。また、稟が直哉のことを幸福の王子に例えるシーンがあり、オープニングにも登場。
- エミリー・ディキンソン
各章の小さい副題は「I dwell in Possibility(全集番号657)」。また「V The Happy Prince and other tales」でフリッドマンが口にするなどする。
『素晴らしき日々』のテーマでもあった「The brain is wider than the sky(全集番号632)」も登場。
ディキンソンは抄訳も出ているけれど、これらが収録されているかは未確認。
「薄っぺらな天才は、才能が透けて見える。天才は、才能を忘れさせる」は『反哲学的断章』から。また、『サクラノ詩』の裏パッケージに「"幸福に生きよ"のその先〜」とある。"幸福に生きよ"は『素晴らしき日々』で度々参照されたフレーズで、論理哲学論考の草稿(全集1巻に収録)より。
なお、『断章』はこの後に「なにも言わないのに匹敵するほど すばらしいことを言うのは芸術ではむずかしい 他人を手本にするのではなく 自然を導きの星とせよ」とある。
「空気力学少女と少年の詩」考察/ふたつの言葉について
現在、『サクラノ詩』をプレイ中で、とても色々思うことが多いのでこの作品に関してはまた改めて書きたいと思うのだが、ふと聴き直したすかぢ前作、『素晴らしき日々』主題歌の「空気力学少女と少年の詩」について気づいたことというか思うところがあったので考察をまとめてみた。
なお、なるべくこの記事単体でも読めるように書いたつもりだが、内容が内容だけに、『素晴らしき日々』本編で語られる内容や、言語哲学上の有名な問題については説明を省いたまま持ち込む形になってしまった点もあることはご了承願います。
素晴らしき日々 〜不連続存在〜 OP 「空気力学少女と少年の詩」
歌:はな 作曲/編曲:szak 作詞:すかぢ天使の科学 空気力学
屋上の縁にたち 見下ろす世界は
消えてなくなる 言葉に溢れてる
さあ 飛び出せ 羽ばたけ 私の翼よ 今神様の声 空気力学
ギリギリの場所に立ち 見上げる世界で
生まれた言葉 空を埋め尽くすよ
さあ 吐き出せ 世界を 創り直すんだ空の青 水に変わり 溺れる人々
世界が沈み 私は輝く翼で
水を掻き分けて 行くんだ
あなたに届く力で 飛ぶんだ 沈んだ世界を 今少女の夢は 空気力学
好きな人 傍に立ち 見つめていたいの
言葉少なく 空気のように ただ
さあ 吐き出す 勇気を 好きという言葉
だから 今だけは 空気力学少女と少年の詩を 聞かせて再生の象徴の魚
消滅を司る鳥たち
私の空気力学
飛ぶんだ ただ ひたすらにね
きっと 届くはずさ 今
今回の私の考察は、この歌詞に登場する「言葉」は実は2種類のものがあるのではないかという仮定に基づく。
私は過去に公共言語と詩的言語という分類を提案したことがある(こちら)。
上記の記事は少々古いものなので、今なら自分でもここはこうは言わない、と言った部分があるが、大まかに言うと以下の様な趣旨となる。
「他の誰にも意味が分からないが、自分にだけ理解できるような『私的言語』は可能か」という問いは本来の議論の趣旨からは外れた問題を引き起こすため、そもそもそのような分類が適切ではない。言語には、大きく分けると意味・用法の定義された、したがって一定の意味を決定できる公共的な言語と、自由に使われてそれゆえに意味解釈の必ずしも一定しない言語がある。後者を私は私的言語ではなく『詩的言語』と呼びたい。
また、公共言語的な用い方を言語の全てであり、さらに人間の思考は言語的なものであると考える発想は、近代の一部の思想における大きな誤りであると私は考えている。言葉に完全には乗らないものが私たちの世界には存在し、それこそが人間の本質である(これは非常に大雑把な言い方ではあるが)。したがって言葉に人を閉じ込めるということは、人の尊厳を貶めることを意味する、という趣旨のことは『ハーモニー』に関して最近書いた記事にもある。
以上の私の言語観から「空気力学少女と少年の詩」を読み解いてみたい。
この歌詞に登場する二種類の「言葉」とは、もちろん公共的/実用的な言葉と、詩的で自由な言葉のことだ。また、天使の科学とも呼ばれる「空気力学」は大雑把に言って「詩」のことだと考える。屋上から見下ろす世界に溢れているという、「消えてなくなる言葉」は、公共的な言葉のほうだ。公共的な言葉は、意味が決められていてそのようにのみ実用的に使われる。したがって、それはあったとしてもいわば箱の外面だけが流通する言葉であり、この世界に新しい意義を付け加えることはない。だからこの言葉は消してしまうことができるのだ。箱の外面だけが流通している、ということの意味は、本当に「意味」があるのは実は箱の中身の方なのだが、他者から見ることのできるのは箱の外側だけである。ということだ。
一方でギリギリの場所から見上げる世界で生まれた言葉が、詩的な言葉であると読む。公共的な、意味の希薄な言葉の世界を飛び出す翼が詩であり、詩の言葉を吐き出すことで世界を作り変えるのが、詩的な言葉の持つ、世界に新しい意義を与えるという力である。
(参考:ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.41 世界の意義は世界の外になければならない〜)
さて、(公共的な)言葉とは、ここでは意義を与えない、消し去っても構わないものと扱っているが、もちろん現実にはそう簡単な話でない。そもそも言葉は使われるからこそ、こうして流通しているのである。だが、言葉はあまりに当たり前に流通し、世界に溢れているため、意味の定まった/決定可能な言葉を「言葉」の、ひいては「人間」の全てであるという思い込みが無意識のうちに多くの人を支配してしまうということがある。(公共言語の世界に)溺れる人々がこれで、そのような境地を脱して飛ぶことができるのは、空気力学を習得した、翼を持つ特別な者だけなのだ。
空気力学の言葉は、けして重苦しくも長々しくもなくとも(=言葉少なく 空気のようにただ)、それでいてそこにいる誰かに届かせることができる。あるいはそういう言葉が本当に使われるべきなのは、世界の内側には存在しない意義を表現するときといっても良い。世界の内側には存在しない意義というのは何か?――ここでは「好き」だ。
また、「あなたに届く力で」「きっと届くはずさ」と繰り返されることは、もちろん「人の気持ちや考えたことはそっくりそのまま伝えることは原理的にできない。それには世界を超える奇跡を必要とする」という世界観を前提として、なおそれを成しうる可能性を秘めたものとして「詩」を歌っているという、この曲のテーマそのものと言える。
「再生の象徴の魚」と「消滅を司る鳥たち」が意味するところは、未だはっきりとしない。あえて解釈を与えてみようとするならば、魚とは、水の底で溺れた人々、あるいは言葉が新しい意味を得て生まれ変わった姿、だろうか。ならば鳥は言葉を発することはなくとも、空気力学少女と同じように空を飛ぶ存在として、意義のない言葉を否定し、詩的な世界を美しく彩るもの、詩情をもたらすものとでも考えてみたい。
最後に、蛇足かも知れないがエミリー・ディキンソンの詩との関連について簡単に触れておきたい。本編でも度々引用される重要な詩、"The brain is wider than the sky"(j632)は3つのパートからなる。すなわち、
- 脳は空より広い
- 脳は海より深い
- 脳は神様と同じ重さ
である。このそれぞれに、空をゆく鳥、海をゆく魚、そしてその両方をゆく空気力学少女という重ね方もあるいは可能かもしれない。空気力学が天使の科学や神様の声と呼ばれてるということは、それを身につけるというのは、世界の限界、世界の意義に触れることを意味すると解釈できる。
脳を世界の限界の内側として、世界の限界の外側としての神様との違いはいかほどか。音と音節の違いは、この世界の内側には存在しない。世界の意義がこの世界の内側に存在しないのと同じように。
「言語」の幻想と力
(この記事は3年ほど前に書いたものの、下書きのまま放置されていたものを見つけて公開するものです。最近の私の考え方/言葉遣いとは必ずしも一致しない部分があります)
言語という言葉の多義性は、あまたの混乱のもとになっている。これを広く広く解釈すると、言語=私(あるいは=世界)と捉えられるが、その「言語」は私達が普段交わしている言葉としての言語とはだいぶ意味合いが違って使われている。
言葉で何かを伝えるとき、科学的な言葉遣いのように正しく使えば意味が一様に伝わることと、伝わっているかどうかは分からず、それを受けた相手の振る舞いなどをもとに(行動主義的に)判断するしかないことの2つがあるように思われる
ところで、前者の科学的なルールに則った言葉遣いというのは、思っているよりもずっとずっと狭い範囲でしか流通していなくて、言ったことの意味が一義に決まるのは人工的なルールの枠内(例えば法律とか、科学論文とか)での話でしかない。日常の言葉はすべからく、後者に属する。
なので、「言語」と言ったら後者の、意味が曖昧なまま使われる日常の言語のことを指しそうなものだ。しかし、ことさらに言語を話題にする場合に「言語」として取り上げられるのは、なぜか前者の意味が一義に決まるとされるほうがイメージされがちであり、このことが問題を引き起こしがちだ。
例として、(ありがちだが)「これ、赤いね」と発言した人がいて、彼の発言を、科学的な表記としての「700nm付近の反射が〜」みたいな物理的事実として検証可能な発言と同一視するのは、はっきり言って大きな間違いだ。クオリアの擬似問題なども、この種の同一視が元凶だと思われる。
言葉に、クオリアは乗らない。言葉はクオリアそのものにはなれない。言葉が、何かをそっくりそのまま伝えることができるというのは、幻想だ。しかし、だとすれば言葉の持つ、他者への強力な影響力の正体とはなんだろうか。
私の手元に、一枚の絵。衝立の向こうには白紙を持った人が一人。声は届くが、お互いの紙を見ることはできない。私はあの手この手で自分の絵がどのようなものかを言葉で説明し、彼は私の手元にある絵を再現しようとする。試行錯誤を繰り返して、彼が私と寸分違わぬ絵を手にする日はくるのだろうか。
2015年漫画10選
まま、せっかくなのでたまにはこういうのも書いてみようかということで。
パパっと手短なコメント付きで挙げてみましたのでよろしければお付き合いください。なお順不同です。
- 黒井緑『赤城と比叡』
楽園-Le Paradis-のWeb増刊で連載していた海戦漫画。文字も全部手書きの手作り感と、確かなイメージに支えられた重厚な描写が唯一無二の読み味を発揮しています。題材としては決して有名ではない海戦や艦も多く取り上げられ、一風変わった視点から海戦の歴史を取り上げていることも特筆すべき点でしょう。私のお気に入りエピソードは『いさましいちびの土蛍』です。
余談ですが、「恋愛系コミック最前線」を謳う楽園から恋愛の「れ」の字もない硬派な海戦漫画が発表され、割と誌面に馴染んているのは楽園の懐の深さスゲェというところであります。
料理初心者なシングルファーザー(高校教師)が、幼稚園児の娘のために教え子(女子高生)と料理をがんばる。ただそれだけ。家族モノも料理モノも今ひとつなはずの私の琴線に何が触れたのか、かなり印象に残っている作品です。雨隠ギド作品は百合漫画の『終電には帰します』も好きだったのですが、この方の特徴はなんといってもダイナミックな表情描写でしょう。ともすればクドクドと長くなってしまいがちな心情描写を、振れ幅は大きくもぎゅっとまとめる手法が見事だと思います。
今更私などが紹介するまでもない約束された超名作ですが、やはり挙げずにはいられません。8巻のあとがき漫画では取材旅行に行ってきたことが描かれていますが、森作品の異常なまでに書き込まれた世界観の後ろにある真摯な情熱が垣間見える内容となっています。
作風の変わった7巻から戻ってきて、アミルとパリヤが再び話の中心になります。8巻では特に、厳しい世界のなかで先を見ながら日々営まれる労働が、それぞれのキャラクターの立場から描かれます。
それにしてもパリヤさんは流石にイジられすぎでは……本当に愛されていますね。
世界に馴染めず心を閉ざしたまま消えていくはずだった少女チセが「魔法使い」を名乗る怪物(?)エリアスに引き取られ、新しい生活を初めていく中で様々な存在に出会っていきます。4巻ではエリアスの過去が語られる他、チセが自身の杖を作ることを通じて自らのあり方を確かなものにしていくお話です。世界の中に自らを位置づけること、異質な隣人との関わり方それはつまり世界と、そして自分自身とどう向き合っていくかということでしょう。描かれる世界の美しさという点において『魔法使いの嫁』は群を抜いて素晴らしい一作です。
ところでこの作品の主人公チセは一見引っ込み思案で受動的な人物に見えるのですが、実のところとても強い芯を持った意思の強いコなんですよね。その結果、表情に乏しくもその実感情豊かで、いざというときには凄く肝の据わった行動をとるというキャラクターとなっていて、その、なんというか、とても良いですね(ニッコリ)
「女の浪漫を拳に込める」格闘技漫画、ちょっと色々あって遅れましたがついに完結ということで。
格闘技漫画は数あれど、エンタメ性とリアリティのギリギリの線を攻め、きちっとまとめたという点で私は本作を高く評価しています。特筆すべきは試合内容の「リアルさ」もさることながら、格闘家の内面を対象的な二人を使って鮮やかに写しだしたところにあるでしょう。だいたい格闘技をやって「強さ」にこだわるような人間はどこか心に歪みを抱えているのだ、ということは『ホーリーランド』などでも言われていることではありますが、その点の生々しさと鮮やかさには目をみはるものがあります。(余談ながら、筆者も総合格闘技をやっていたことがあり、『鉄風』には技術面でも内面的なことでも「あるある!」な点が多くありました。無論それは漫画的な誇張を織り込んでのことではありますが)
ラストは「結局何も解決してない」とか「ムリに畳んだ」という批判もありますが、私はそれは違うと思います。何かが劇的に解決したりすることは本来なく、何かが始まり何かが終わり、何かが変わりつつも日々は続いていくというのが世界/人生なのだから、むしろ1つの漫画の結末としてこれは正しいあり方だと思うのです。
- 仙石寛子『あなただけ宝石』
短めの恋愛漫画ならなんでもござれ、カップリングの多彩さなら仙石寛子(とはいえBLと姉弟は明らかに多いので趣味が分かりやすい)。薄く儚い独特の絵柄は好みの分かれるところではありましょうが、仙石寛子特有のこの空気はなかなか余人には得難いものでしょう。それから、もともと4コマ漫画出身という事情もあってか、仙石寛子の漫画には不思議な「リズム感」のようなものが感じられ、それがエモーショナルで良いなと思うのです(個人の感想であり、効果には個人差があります)。
この作品集だと「日向で咲いて」(作家と編集の社会人百合)が好き。
- 安倍吉俊『リューシカ・リューシカ』10巻
空想少女の「日常が劇場」漫画、完結です。
初期の『リューシカ・リューシカ』はリューシカ以外のキャラクターがあまり出てこず、日常の不思議な出来事や怖い出来事に対して自分の空想の世界を作っていく傾向が強かったのに対して、後半に進むにしたがって家族や他の大人たちとの交流も増え、空想は日常を膨らませた楽しいものに変わっていきます(というのは著者本人があとがきで語っていることでもあります)。初期の「空想」は哲学的な解釈をはらんでいたり、世界の素朴な認識を描き出していて興味深かったのですが、それはそれということで。作者もリアル子育て真っ最中で、リューシカも作者も「タマゴ」もぐんぐん成長(?)するところが垣間見れたここ数年でした。
棺を担いだ黒ずくめの不思議な旅人「クロ」の旅路。あまり多くを語るべきではない気がするので内容については「ぜひ読んでみてくれ」と言うにとどめておこうかと思います。
可愛らしい絵柄でありながら闇と死の匂いの色濃い、真っ黒な紙面に引き込まれます。
- 犬丸『演劇部の魔女と騎士』
今は亡き休刊中の百合アンソロジー「ひらり、」に連載されていたのは随分前だったように思いますが、単行本は今年の7月だったのでここに。
高校の演劇部を舞台に繰り広げられる日常の人間模様、一見してちょっと絵柄が個性的なだけのごく普通の部活モノです。が、この淡白で短いお話には膨大なコンテキストや示唆が散りばめられています。それらを丁寧に読み取ることで、一読しただけでは読解困難な台詞や仕草の意味を理解する(=ひいてはその後ろに隠されたキャラクターの心の揺れやかすかな意図を読み取る)、それは「読み取る」というよりも「感じ取る」とでも言うべき行いでしょう。これだけ繊細な読解を可能にする世界を描き上げた手腕にはただただ脱帽です。
- 三巷文『ハーモニー』
http://webnewtype.com/comic/harmony/
この10選で唯一未だ単行本の1冊も出ていない作品ですが、この1年で圧倒的に印象深かった作品として、取り上げないわけにはいきません。伊藤計劃のSF小説を原作とする本作ですが、原作小説を徹底的に読み込み、自分の中に取り込んで再構成したような漫画版はむしろ原作より完成度が高いのではと思えるほど。かなり独特な未来を舞台とするSFですが、その未来の世界観を漫画の中の小物や背景も駆使しつつ巧みに提示し、織り込んでいるので無駄に説明的に感じる点がまずありません。かつ登場人物、特にミァハの仕草や表情全ての芝居は非常に豊かで、実は凄まじく情報量が多いのに楽しくサクッと読めてしまうのが不思議でなりません。当然これは、単に情報を詰めるのが巧いという話ではなく、キャラクターの魅力やストーリーの見せ方も一級品であってこそです。褒め過ぎと思われるかもしれませんが、冗談抜きに「漫画という媒体はここまでできるんだ」というハードルをグイッと押し上げた作品だと思っています。
こんなこと (WANIMAGAZINE COMICS SPECIAL)
なお作者の三巷文さんはこれ以前には『こんなこと』というエロ漫画を1作出しているだけという謎の人物です。こちらの作品も漫画好きでエロコンテンツに抵抗がないなら読んで損はない面白さです。こちらを読んで感じるのは、やはり表情と芝居に情報を込めるのが凄まじく巧いという点であり、『ハーモニー』で遺憾なく振るわれている「芝居のワザ」の起源を垣間見ることができます(業界では「漫画が上手くなりたければエロ漫画を描け」という名言があるそうですが、三巷文の例をみればさもありなんと思わずにいられません)。
(追記:三巷文さんの過去のお仕事として『キャプテン・アース』のキャラクター原案及びスピンオフコミックがあるそうです)
−−こんなところでしょうか。何か忘れている作品もありそうな気がしますが、ひとまず私らしく納得の行くラインアップを挙げられたと思います。もしどれかに興味が湧いて手に取っていただければ幸いです。
言葉になることの意味、言葉にならないもの
「こどもがおとなになると、言葉になる」
少女時代のミァハは、言葉にされてしまうことを拒絶した。
言葉にされる、とは一般化されるということだ。月並なたとえだが、ここに林檎が幾つかあるとする。「林檎」なるものはもともと存在せず、何がしかの個別の存在たちが在るだけだが、私たちはそれらにある共通点/類似性を見出すことで「林檎」という言葉を作り出し、世界を切り取る。ここに林檎という言葉によって区切られた均質な幾つかへと存在は変貌し、個別の存在たちは絞め殺されることになる。同様に、人間とは外面的には一定の共通点を持ち社会を構成する存在だが、均質で穏やかな、ハーモニクスにあふれる社会を作ろうとすればするほど、均質化の過程で切り落とされるものは多くなる。そして、ここで切り落とされるものとは、その多くが内面的な領域(つまり自由意志とか、意識の問題)に属するものである。その一方で人の内面とは、そういうものが本当にあるのかどうかということすら確認できないほど個別的で、不可解なものである。ミァハはおとなになる/言葉になることを拒絶することによって、それらの個別で不可解な領域を「わたし」の支配下に確保しようとした。
一般に、人々にはそれぞれ個性をもった意志があると考えられていて、したがって同じ状況に置かれた場合でもそれぞれの個性に基づいて違う行動を選択する場合があるとされる。だが、私たちが他人の個性や意志を直接確認することは決してできず、その振る舞いによって「そういう選択をさせるなにか」を仮定しているに過ぎないのである。ここで重要なのは、私は主観的な体験として、自分に意識も意志もあると思っているが、他人に関しては外に現れる行動を通じて推測しているに過ぎないという点である。いわば人の内面とはブラックボックス的なものであり、その内の構造は伺い知れないからこそ我々はそこに神秘的なものを、そして価値や尊厳を見出したくなる。そしてだからこそ、人の感情に基づく行動の「不合理さ」がつまり個性であり、その人の存在の固有さと同義とも言える。つまり、明白に理由を説明できない/不合理な選択を行う余地が担保されていることこそが、人の個人たる尊厳の成立条件と言える。言葉にされることが個別性を、尊厳を奪うのはこうしたことからだ。現実には、私たちは言葉で説明する公共的な部分と、けして「おとなの言葉」には還元できない個人的な部分を具有することで「わたし」というものを成立させているが、ハーモニーの社会とは不協和音となりうる個人的な部分が極端に公共化されているというギャップが不気味さを醸している。
言葉にされることを拒んだトァンとミァハという二人の少女の物語としてのは、トァンがミァハを射殺することで幕を下ろすが、その理由は原作と劇場版で大きく異なっている。その理由とは原作ではヌァザとキアンの復讐、劇場版ではトァンの愛したミァハでなくなることへの拒絶である。この脚本改変の是非や必然性に関してはひとまず措くとして、このような改変が(一応は)成立していることは興味深くもある。すなわち、かたや復讐心、かたや愛情という全く逆の感情から、殺害という同じ行動が引き出されているという点だ。加えて、この行動に至るまでのトァンの心中は詳しくは描写されないため、私たちはトァンの感情的/不合理な行動を目の当たりにすることで、そこに個人的で言葉にされない部分の大きさを見る。
かくも言葉にされない人とは理不尽で、不合理で、そして尊い。
私たちの時代のヒーローという概念
この記事では、とある人の書いたヒーローと超人に関する記事を読んで思ったことなどを勝手に書き散らかしたものです。あと筆者はヒーロー物については、実は全然詳しくありません。
・「ヒーロー」と「超人」という異なる概念、そして「ヒーローの錯覚現象」について。 - ぼっちQ&A!~ひとりぼっちの地球侵略感想ブログ~
ヒーローと呼ばれる条件として、上にリンクを張った記事では おおまかに言って「物語の中において、誰かを助ける役割を果たす人物」であること、そしてそこから派生して、「過去の行いからヒーローとみなされ続ける人物」と「超人的な属性を持つ人物」もヒーローと(誤って)呼ばれうるのだとしている。
一般にヒーローといえば、例えば古典的にはウルトラマンや仮面ライダーである。彼らは普通の人はけして持ち得ない「超人的な」力をもって、人々の生活を脅かす「悪」と戦うという物語の中で誰かを助け続ける。
一方で、「人を助ける」こととは基本的に無関係な文脈でヒーローという呼称が使われることもある。典型的には非常に優れたスポーツ選手が「国民的ヒーロー」とされるといったものである。この文脈において、物語の中での役割とは無関係に、「超人属性」と「憧れを集める作用」だけがヒーロー性の根拠となっている。このように、あらゆる「ヒーロー」と呼ばれる人物に共通するような属性はもはや見いだせないと言ってもよいだろうが、やはりヒーローとは能力的に優れていたり賞賛される行動を取り、善性を体現する人物に対してポジティブに使われるのが普通だ。しかし、全くそのような典型的なヒーロー像からかけ離れた存在もしばしばヒーローと呼ばれる。例えば、寺山修司は『負け犬の栄光』の中で以下のように書いている。
私にとって、60年代のヒーローとは、勝とうとしながら勝てず、怨念のうちに燃えつきていった男たちのことである。
もはやこの文脈において、ヒーローは誰も助けず、超人でも何でもなく、人々の憧れを一身に集めることすらない(ちなみにこうした文脈で寺山修司が取り上げるのは、野球選手、ボクサー、あるいは競走馬である)。それでもなお、彼らをヒーローたらしめているものはなんなのであろうか。
月光仮面について書いた別の文脈で寺山修司は、また以下のようにも述べている。
第二次世界大戦を境として、この倫理−−正義の味方の素顔は、悪の素顔へと倒錯していき、正義は居場所を失い、姿をくらまさねばならなくなった。(中略)
私たちは、やがて「正義の味方」ではなく、正義そのものを疑いはじめ、その尺度の判定など存在しないことを知るようになっていった。
確かに寺山修司の生きた60年代とは、戦争をまたぎ敗戦から立ち直り、成長期へ向かいつつも、既成の価値観が意味をなさなかった(=正義が不在な)時代だったのかもしれない。その後日本の社会は、70年代の安定期を経て、90年代にはバブル経済へと向かうのは周知のことである。
一方で、1966年のウルトラマンを先駆けとして、1971年の仮面ライダー、1975年にはスーパー戦隊シリーズと、70年代はヒーロー物百花繚乱の時代とも言える。「ガラクタの60年代」を乗り越え、経済的/社会的な安定を獲得したことで、規範的な「正義の」ヒーローをもてはやす事が可能となったのが70年代という時代だったのかもしれない。この文脈で語るならば「規範」が再び崩壊し、現代の再び正義が不在の時代へと向かう契機は当然バブル崩壊であろう。
さて、前置きばかり長くなってしまったが、現代という正義が不在の時代への大まかな流れを仮説的に語ってみたところで、本題である。
超人的能力とも無縁で、誰も救わず、規範を体現するでもない。そんな人物がなお、ヒーローと呼ばれる場合のヒーローとは何なのであろうか。
結論から先に言えば、それは「他者に対して何らかの物語を体現することのできる人物」ではないだろうか。物語を体現するとは、一貫した一個人の元に、価値観、佇まい、エネルギー……そういった諸々の要素を統合することでひとつの「可能な生き方」を見せる、言い換えれば別の人生を仮想体験させるということである。あるいは「物語」を「正義」などの言葉で言い換えても良いかもしれない。他者の人生/価値観を擬似的に追体験するかのような、こうした作用は時に自分の人生に理想や目標、あるいは希望を与えてくれるものだ。この時、ヒーローは直接的には何もせず、ただ自分の人生を生きているだけであるにもかかわらず、誰かの人生を「変える/救う」のである。
こうした意味でヒーローを捉えてみると、誰をヒーローとみなすかはヒーローの立つ時代、彼を見る人という文脈に完全に依存する。だから、社会が安定して正義/価値観が単一化していれば、そこにはいかにもヒーローらしい少数の(理想的にはただ一人の)ヒーローが立つだろう。一方で、社会が混迷していて多用な正義/価値観が乱立する世の中には、それぞれの物語の元に雑多なヒーローが息づくことになる。また、人生の疑似体験としてヒーロー視という現象を見るならば、ヒーローを求める側の願望こそが「誰がヒーローか」を決定すると言ってもいいだろう。すなわち、自身とある程度同一視可能な程度に近しく、かつ自身の本来の人生では果たせないようなことを果たしてくれるのが、その人にとっての理想的なヒーローである。
ここで現代日本に目を向けてみると、決して順風満帆明るい未来、とは言えない情勢で、人々は正義や理想を持てずに生きてるといっていいのではないだろうか。それだけでなく、生活は細分化が進み、インターネット等の情報メディアの発展は、情報の均一化ではなく多様化/細分化を急激に進めたと言って良い。そうした社会の情勢とは、物語が細分化及びメタ視され、純然たる「みんなの物語」が成立しえない環境とも言える。60年代とはかなり雰囲気は違えど、現代の日本もまた「ヒーロー不在の社会」と呼ばれることに何ら違和感はない。もちろん、現代日本にヒーローが居ないと言っているわけではない。むしろヒーローは無数に存在する。そしてヒーローが無数に存在するということこそが、「ただ一人のヒーロー」の不在を決定的に証明している。そして、こうした社会でヒーロー視される存在とは、ただ一人で皆の正義を体現、実現するジェネラルなヒーローではなく、ごく「パーソナルな」ヒーローとなろう。
ところで、このようなパーソナルなヒーローしかいない世の中において、所謂「ヒーロー物作品」はどのように作られ、消費されるのだろうか。ウルトラマンや仮面ライダーは今もシリーズが続いているが、それらとは別に、ヒーロー物のテンプレートをメタ的に取り込んだ、「ヒーロー物物」とでも呼べる作品が近年多く作られていることは、注目に値するのではないだろうか。例えば『ガッチャマンクラウズ・インサイト』では主役の一人である一ノ瀬はじめが「ヒーローって何なんっすかね〜」と繰り返し歌う。ガッチャマンの面々はそれぞれの裡に少しずつ異なる正義を抱え、決して一枚岩ではなく、むしろそれぞれ個人的な存在として強調される。こうしたヒーローの姿を通じて、「ヒーロー不在の社会」をいかに生きるべきかを問うことが『ガッチャマンクラウズ・インサイト』の主題の1つだろう。
また、『γ−ガンマ−』という漫画作品を例に挙げると、本作では様々な怪人や怪獣、悪の組織や異星人が地球の平和を脅かすなかで、アメコミや特撮の変身ヒーローを中心とした様々なヒーローが入り乱れて活動するという世界を描いている。本作は明らかに上記で述べたような「ヒーロー物」をメタ的に材料として扱った「ヒーロー物物」であり、実際にこの世界で多様なヒーローが現れるきっかけとなった人物は、ヒーロー物作品の大ファンであり、この世界のヒーローの起源はヒーロー物という虚構(=物語)であることが明らかになる。また、本作中にはいかにもそれらしいヒーローも登場する一方で、ヒーローとしての超人的な力を失った元ヒーローの苦悩や、ヒーローとなったものの実力が足りずに悲劇的な結末を招いてしまうストーリーが展開され、「ただ一人物語の中心に立ち、強力な力で正義を実現するために戦う」というヒーロー像は、いわばバラバラに分解されてしまう。一方で彼らはその外見だけでなく、裡に秘めたそれぞれの正義感や物語により、非常に「ヒーロー然として」我々の目に映ることもまた事実である。また、『γ』でメインストーリーの敵と主人公勢の対立構図は、絵面としてはヒーロー物らしく善悪の対立のように描かれる一方で、一概に悪役側が悪と判断することはできないようにも思える。敵のボスの目的とは、人類のうちの選ばれた者たちを進歩させて人類を新たなステージに導くことで、そこで切り捨てられる人間が大勢いることは認められない、というのが主人公たちの立場となる。しかし、一歩違えば主人公たちの立場は旧弊の価値観に囚われてズルズルと滅びへ沈んでいく老悪、とみなすこともできる(実際、人類の未来に関して明らかなビジョンを示せているのは敵の側である)。この相対化された善悪の戦いの勝敗の決め手となるのが、愛でも勇気でもなく、あるヒーローの個人的な憎しみの気持ちによる執念(つまり負の感情)であるという事実は非常に示唆深いものがあると思う。
こうした「ヒーロー物物」の登場、ヒーローという概念の分裂、多様化は時代の流れなのか、あるいはヒーロー物の歴史の蓄積の結果なのかは分からない。だが、現代という時代におけるヒーローとは非常に個人的で人間くさく息づいたものになっていることは確かだろう。
つまるところ、みんなのヒーローが不在の現代とは、私たちが個人的なレベルで正義や憧れといったヒーローの機能を担っていくような生き方が必要な時代なのではないだろうか。
あなたには、ヒーローがいますか?
『ニカライチの小鳥』意識の正体に関する考察
福岡俊也『ニカライチの小鳥』太宰治賞2012の最終選考作品。ウィトゲンシュタインやヒュームなどの哲学を取り上げられ、文学と哲学の両面からの思考の流れが描かれる。名前は登場しないが、思索の内容は永井均と共通点が多いように思われる。
数は2から始まる、とエリが言ったので、タカシはそのことについて考えてみた。
本作はこんな書き出しから始まる。
『ニカライチの小鳥』は主人公の中の哲学的な人格である「タカシ」と文学的な「エリ」が対話と思考を重ねて、ある哲学的な発見に至る物語だ。価値、物語、あるいは概念の生まれるその前についての思索に取り組む哲学は、現代において唯一哲学と呼びうる分野として残された領域だと私は思う。一方でそのような哲学が本当に可能なのか、とも。世の「哲学者」たちが超えるどころか気づくこともできずにいる壁を、あるいは一歩超えることが出来たのがこの『ニカライチの小鳥』なのかもしれない。
作品の前半では数の概念の発生や、価値(祝と呪い)についての考察が繰り広げられ、やがて話題は自然の斉一性や自由意志の有無に及ぶ。ここまでの考察は、私も以前に考えた覚えのある内容が丁寧に表現されていてある種の親近感を持って読めた。そして自由意志の有無に関する考察から、意識の正体について、私がこれ以上は進めないと思っていた部分に飛躍をもたらしてくれた。
それは、「予測と現実の差による摩擦が意識である」という考察だ。つまり、予想外の事態(突然声をかけられるなど)に強く意識が向くのはなぜか? という問いに対する「予測と現実の差が意識だから」という答えだ。
また、我々が自己と呼んでいるものと意識と呼んでいるものの混同を指摘し、意識は自己と現実の差によって引き起こされるものである(つまり意識は自己ではない。自己は過去の経験に基づく予測体系のようなもの、ということだろうか)としていることから、意識が観測不可能であるという問題に対する解答となっているように思える。
これによって、哲学の話題でよく議論される「他人に意識はあるのか、犬などの動物には?サーモスタットには?意識の成立条件とは?」という問いも、意識をこのように捉えると、未来を予測して行動するような生物などには予測の複雑性に応じて意識があると思われる。と答えることができる(余談ながら「生物など」と書いたのは、この論ならロボットなどにも問題なく意識を想定できるからだ)。
残る問題としては、生物の複雑化の過程の中で、物理的にどういう状態になれば「何かを予測している」といえるようになるのかが問題になってくるだろうか、と思う。今のところ私は予測に関する哲学的ゾンビは想定不可能なように思っている(予測とは何らかの物理的な過程を伴う情報処理のことだから)が、どうだろうか。この点に関してはまだ考えがはっきりしない。
自由意志についても、書きたいことが少々あるのだけれど、話題が変わるのと少々長くなりそうなので、それは改めて別の記事として。