言葉になることの意味、言葉にならないもの

「こどもがおとなになると、言葉になる」

 少女時代のミァハは、言葉にされてしまうことを拒絶した。
 言葉にされる、とは一般化されるということだ。月並なたとえだが、ここに林檎が幾つかあるとする。「林檎」なるものはもともと存在せず、何がしかの個別の存在たちが在るだけだが、私たちはそれらにある共通点/類似性を見出すことで「林檎」という言葉を作り出し、世界を切り取る。ここに林檎という言葉によって区切られた均質な幾つかへと存在は変貌し、個別の存在たちは絞め殺されることになる。同様に、人間とは外面的には一定の共通点を持ち社会を構成する存在だが、均質で穏やかな、ハーモニクスにあふれる社会を作ろうとすればするほど、均質化の過程で切り落とされるものは多くなる。そして、ここで切り落とされるものとは、その多くが内面的な領域(つまり自由意志とか、意識の問題)に属するものである。その一方で人の内面とは、そういうものが本当にあるのかどうかということすら確認できないほど個別的で、不可解なものである。ミァハはおとなになる/言葉になることを拒絶することによって、それらの個別で不可解な領域を「わたし」の支配下に確保しようとした。
 一般に、人々にはそれぞれ個性をもった意志があると考えられていて、したがって同じ状況に置かれた場合でもそれぞれの個性に基づいて違う行動を選択する場合があるとされる。だが、私たちが他人の個性や意志を直接確認することは決してできず、その振る舞いによって「そういう選択をさせるなにか」を仮定しているに過ぎないのである。ここで重要なのは、私は主観的な体験として、自分に意識も意志もあると思っているが、他人に関しては外に現れる行動を通じて推測しているに過ぎないという点である。いわば人の内面とはブラックボックス的なものであり、その内の構造は伺い知れないからこそ我々はそこに神秘的なものを、そして価値や尊厳を見出したくなる。そしてだからこそ、人の感情に基づく行動の「不合理さ」がつまり個性であり、その人の存在の固有さと同義とも言える。つまり、明白に理由を説明できない/不合理な選択を行う余地が担保されていることこそが、人の個人たる尊厳の成立条件と言える。言葉にされることが個別性を、尊厳を奪うのはこうしたことからだ。現実には、私たちは言葉で説明する公共的な部分と、けして「おとなの言葉」には還元できない個人的な部分を具有することで「わたし」というものを成立させているが、ハーモニーの社会とは不協和音となりうる個人的な部分が極端に公共化されているというギャップが不気味さを醸している。
 言葉にされることを拒んだトァンとミァハという二人の少女の物語としてのは、トァンがミァハを射殺することで幕を下ろすが、その理由は原作と劇場版で大きく異なっている。その理由とは原作ではヌァザとキアンの復讐、劇場版ではトァンの愛したミァハでなくなることへの拒絶である。この脚本改変の是非や必然性に関してはひとまず措くとして、このような改変が(一応は)成立していることは興味深くもある。すなわち、かたや復讐心、かたや愛情という全く逆の感情から、殺害という同じ行動が引き出されているという点だ。加えて、この行動に至るまでのトァンの心中は詳しくは描写されないため、私たちはトァンの感情的/不合理な行動を目の当たりにすることで、そこに個人的で言葉にされない部分の大きさを見る。
 かくも言葉にされない人とは理不尽で、不合理で、そして尊い